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ひどい頭痛を感じて、彼は起き上がった。――あれは夢か?鮮明に思い出せる彼女の悲しそうな横顔に余計に頭が痛むように感じた。軽く頭を押さえながら覚醒したばかりの頭でぼんやりと自分の所在を考えた。
ここはどこだろうか、目を細めてあたりを見回しても、薄暗い室内であることくらいしか分からない。ということはここはどこだという己の疑問は晴れない。ならば別のことを考える。自分は何をしていたのか、どうしてここに。――確か、自分は毎週通っているピアノ教室に向かう途中だったはずだ。それが道中霧の濃さに交通機関が一切使えず、仕方なしに電車が動くのを待っていた、というところまでは覚えていた。ただどうしてここにいるのかは一切分からない。この霧に乗じての拉致、誘拐なのか?まったく身に覚えがないので、考えうることといったらそれくらいしかなかった。
「…さっきのあれは…真田だよな」
行き詰った答えに溜息をついて、先ほどの“夢”を想いだし眉を寄せる。
おそらく夢に出てきた彼女は自分と同じピアノ教室に通っていて、更にいえば淡い思いを抱く真田栞であろう。少し大人びた声と悲しげな横顔、伸ばしかけた手は何もつかまず、世界はただ崩れ落ちた。そこでその前に現れた無数の触手を思い出し、全身が粟立った。あれに捕まったままだったら、きっと、戻れなかった気さえする。少しだけ荒立つ呼吸をおさえるために目をつむった。
そうすると、静かなピアノの音が耳に届いた。―これは、彼女の音だ。聞き覚えのあるこの音色からは彼女の穏やかな性格が現れていた。その音色が脳内で反芻していくうちに、呼吸はだんだんと落ち着いていった。呼応するように、彼女のちょっと控えめな笑顔を思い出した。するとどうだろう、不安は、消え去って行った。
(真っ暗で何も見えない。だけど駅じゃないことは確かだし、どこか建物の中だっていうのも確かだ。それに別に拘束されているわけではない。動ける。――よし)
彼はゆっくりと瞳を開ける。その暗さに慣れたせいか、徐々に視界は開けていった。そして、周りの光景が見えたとき、彼は愕然と目を見開いたのだ。
―――遥かに大勢の見知らぬ人間が、おそらく自分もこうであったのだろうが、その広い空間の中に余すことなく敷き詰められていた。まるで遺体収容所のような光景だ。
「なんだ、これ――!?」
思わず立ち上がり、声をあげ、口を手で押さえる。だが、誰一人として起き上がるものはいないし目を開けるものもいない。その異様な光景だけが彼の目の前に広がっていた。
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