「あらあら、ごめんなさいね!やめなさい、お姉ちゃん困ってるでしょ?」
最初はほほえましくその光景を見つめていた母親だったが、空が固まっているのに気づいたのか、子供に止めるよう頭を撫でるのだが。赤ん坊の興味というものは実に恐ろしいもので、掴んだものは離さないが如く、余計に力を込めてピョコモンのめしべを引っ張った。「こら!」さすがにぬいぐるみとはいえ、他人の子のものが引きちぎれてしまうと危惧した母親が、更に引き離そうとするが。その行為は赤ん坊を、更に触発するだけだった。「やー!!」と叫びながら、ぎゅーっ!とピョコモンのめしべを。
「いったーい!!引っ張らないでーっ!!」
どれだけピョコモンが痛い思いをしたのか、子供たちには量りきれない。ピョコモンは、今の今まで頑張って耐えた。大好きな空のために、子供たちとの約束のために。しかし我慢の限界というものに到達してしまった。思い切り叫んだピョコモンに、子供たちは固まり、赤ん坊も固まり、ゆるくなった力からは簡単にめしべは離れて行った。
栞は目を見開き、ペンダントを握った。バレてしまう。電車の走行する音だけが、妙に彼等の間を走り抜けていく。――誤魔化せるだろうか。周りに座っていた大人たちは皆、状況を把握するのに精一杯らしかった。ぬいぐるみが喋るわけがない。つまり、ぬいぐるみを抱えている少女がボタンか何かを押して、あらかじめ登録されている単語を発したに違いない――あのような生物など存在するわけがない――「しゃべった!!」――ぎくりとした。栞がそろりと視線をうつせば、扉を挟んだ反対側に座っていた少年が勢いよう立ち上がり、ピョコモンを指差した。「あのぬいぐるみしゃべった!」
「……どウすルンだろ」
ふわ、と小さな欠伸をしたイヴモンがまるで他人事のように呟くものだから、栞は更に強くペンダントを握りしめた。「空、頑張って…」小さな願いを込めた。こんなところで神頼みなんて、些細なことすぎて神様に怒られてしまうかもしれないが。
空は必死になって考えた。どうすればいい。どうすれば誤魔化せる?――ふ、と暖かい光が空の心に差し込んだ。小さく心の中で息を吐いてから、「痛かったのー、それはかわいそうだったね!よしよし!」滝のごとく滴る汗は、頬を伝いピョコモンに落ちる。空は満面の笑みを浮かべ、そう言い放った。この車両に乗車している全員に聞こえるように。ピョコモンに顔を近づけ、「…良い?私に話を合わせて」と口早に告げた。さりげなくピョコモンの口を押さえた。
「でもね!赤ちゃんもピョコモンのことが大好きなんだよ!」
「ほんとう?」
「ほんとうだよ!だから許してあげようね!」
「うん。大声出してごめんね?」
なるほど、腹話術とはよく考えたものだ。そして口ズレがバレないように、さりげなく口を押さえたわけだ。もちろん、ぬいぐるみが喋ることはないと大人たちは分かっていたわけだから、空の機転にあっさりと騙されてしまったみたいで、「ああ、あれは腹話術って言って本当はあのお姉ちゃんが喋ってるんだよ、おもしろいだろう?」とか「ほーうまいもんだ」と関心するように空とピョコモンを見つめた。当の赤ん坊は引っ張るよりも、こっちの腹話術もどきの方が面白かったらしく、声を上げて笑った。
―終わった。今度こそ大丈夫だ。ほっと一息ついた子供たちだったが――「ほしい!パパ、僕もあのぬいぐるみほしい!ねー買って買って!パパ、ねえ!」小さな少年は先ほどから自分たちに何かの恨みでも持っているのだろうか。一難去ってまた一難とはこのことである。
可愛い息子に買ってとせがまれた父親は、申し訳なさそうに空のもとへとやってきた。
「あのー、お嬢ちゃん。悪いんだけど、それどこで売っていたのかな」
「ど、どこって…」
別にピョコモンのぬいぐるみを買ったからとて腹話術が出来る訳ではない。そのことを子供に諭してあげてほしい。もちろんピョコモンはぬいぐるみではないし、もしぬいぐるみが売っていたとしても、それはデジタルワールド内限定の販売だろうからきっとここには売っていない。
空は折角回避したと思っていた危険を再び回収され、あっちを見たり、こっちを見たり、視線を彷徨わせて考え込むふりをした。何せこの車両にいる全員の瞳が、空に向けられていたのだ。焦る気持ちもあるし、もちろん出来ることなら助けてあげたい。しかし何か出来ることがあるわけではない。ごめんなさい、と心の中で呟いて、心配そうに空を見るしか出来なかった。
( 練馬か… )
点滅ランプが光り、電光掲示板に『練馬』の文字が見えた。電車はゆっくりと減速し、窓からは練馬のホームが見えてきた。
『次は練馬、練馬です。お出口は右側です』
車内にアナウンスが流れ、ゆっくりと停車する。空はハッとした。ここで何とかしなければならない。「ね…」今思い浮かぶ単語は――プシューっと軽い音を立て、扉が開いた。生暖かい風と、冷房のきいた車内の温度が混ざり合う。「練馬の大根デパート!!」それはやけだった。練馬の大根デパートなど、一体だれが信じてくれる――「あ、そう!ありがとう!」あっさりと信じてくれた。父親と子供を筆頭に、次から次へと乗客たちがありもしない『練馬大根デパート』を目指して一気に駆け抜けた。ピョコモンのぬいぐるみを購入して、空みたいに腹話術でもやるのだろうか。
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