087 遺伝子の記憶
こんなにも嘘をつくことが心苦しいとは、栞は思いもしなかった。
昨夜は遅くなったにも関わらず、リビングで心配そうに待っていたおばと、芝浦まで連れて行ってくれたおじに対し、正直に話すわけにはいかない。適当に繕ってそれっぽい嘘を並べれば、不承不承ながらも、納得してくれた。じくりと胸の奥底から痛みが襲いかかってきた。小さな声で、ごめんなさい、とつぶやけば、おばは何を謝るのと言いたげに笑ってくれた。
騙してごめんなさい。心の中で補足しておく。本当のことを告げるわけにはいかないから、謝るしかなかった。
「もういいから。栞、もう遅いから寝なさい」
「…、はい」
「栞」
「……?」
「何か、私たちに言わなければならないことはないか?」
見透かすように自分を射抜く、一馬と同じ系統のつり目は、どこまでも澄んでいた。栞は少しだけうつむいて、首を横に振る。「―何も…ない、です」小さな声でそれだけ吐き出せば、おじは、硬い表情を崩して、優しく笑った。
「ならいいんだ。おやすみ」
「…おやすみなさい」
―何か言わなければならないことはないか。そのおじの言葉が、ぐるぐると頭の中を支配した。
★ ★ ★
( 眠っている )
不思議な気分だった。確かに己は目の前で眠っているし、上のベッドではきちんと一馬も眠っている。だというのに、何故、己はこうしてベッドの横に立ち、眠る己を見つづけているのだろう。
( それでいい。そうすれば『人』でいられる )
不思議な気分だった。子供たちが紋章とタグを手にしたその時から、彼女の体は眠りを必要としていなかったはずなのに、今はぐっすり目の前で眠っている。人としての感覚が、再びこの身体に戻ってきている―そう感じた。だとしたら、何故だろう。この世界に居れば、人間でいられるのだろうか。否、それは違うと断言できた。この世界に居れば、ではない。おそらく――。
( ああ―私は、『人』でいられている? )
不思議な気分だった。まるで、己が己でないように、目の前で眠る己を見つめ続けている。窓から差し込まれる漆黒の闇と月の光が、彼女の顔を照らし続ける。真摯な色を焼き付け、そうして、夜は更け、月から太陽へと変わる時間帯へと誘う。
( せめて、せめて、『人』でいたい )
そして、恐怖が襲いかかる。―いつまで『人』でいられる。いつか、全てが剥がれ落ち、『人』としていられなくなったら、おそらく、彼女の精神も、共に闇の中へと消えていくのだ。
( だから、『あなた』が必要なんだ )
眠る自らの頬に、長く、病的に白い指を滑らせた。長く伸びた髪は、窓から入り込む風により、ふわりと浮かび上がる。悲しげに寄せられた眉は、どこまでも、美しかった。
( 狩人―― )
空を仰ぐように、体は逸らされた。窓から差し込む光が、やがて、淡い白色となり、彼女の体も応対するよう溶け込んでいく。やがて―粒子となり、消え去った。
「んん、」
今までぴくりとも動かなかった栞の体が、ゆっくりと横に向かれ、小さくまばたきをした。寝付いてしまうと朝まで起きることなどないというのに、妙に目が覚めたように、瞼が冷える。浅い呼吸を繰り返して、ゆっくりと起き上がった。その反動でか、隣では小さく丸まって寝ているイヴモンが、少しだけ飛び跳ねた。
「……?」
ぼんやりとする脳内で、枕元に置かれた時計に目をやれば、もはや真っ暗とは言い難い部屋の中では、彼女の目はよく見えていた。午前3時。まだまだ起きるには早い時間帯だった。目を擦って、もう一度ベッドに横になる。―何か考えなければならないことがあったかもしれないというのに、それはしてはいけないと思う。
横になり、目に飛び込んでくる白い塊に手を伸ばした。なぜかホッと胸が安らぐ。もう、この子なしではいられないというほどに。
そうして、栞は目を閉じる。深い深い夢の中へと身を投じることは、『人』としては、必要なことなのだから。
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