093 ドッグイヤーの夜明け




 どこかで誰かのため息が聞こえた。泣きわめく己に、それではだめなのだと、ささやく。ではどうすればいいのかと尋ねれば、その声は遠く、けれど近くで言った。


―――…解放をのぞむ。


 声は、幼子のように高い。しかし、野心めいた色を残し、その場に存在する。思わず戦慄した。なぜなら、その声の持ち主を、頭の中では理解していたからだ。急いで首を横に振れば、それは一気に詰め寄ってきた。


―――…解放をのぞむのだ。


 爛々と野望に埋まる赤き瞳は、 『わたし』だった。


★ ★ ★




 その日を記憶するとしたら、まずは日付だろう。
 ―8月3日。学生からすれば、夏休み真っ最中といったところか。あと少しすればそろそろ宿題の方が気がかりになってくる。何はともあれ、誰もが楽しい毎日を過ごしている。この日も、例外ではない。――そのはずだった。
 徐々に頭角を現した闇の力が、濃霧となりお台場を飲み込んでいく。蓄えた力を一気に放出し、それは―――ぐわん、と大きく鳴り響く頭を押さえ、栞は硝子越しにそっと外を見つめた。相変わらず霧がかかっていて、見通しが悪い。そんな今日は、一馬たちが所属するロッサの練習試合がある。昨日の今日でそんな気分になれはしないのだが、何分、結人と約束しているので破ることもできない。


(テイルモンとウィザーモンはどうだったんだろう…。八神くんとアグモンは…?)


 先ほど勇気を出して電話をしてみたのだが、電話回線の問題からか、その電話がつながることはなかった。なので彼からの連絡を待っているのだが、今日は一回も電話が鳴ることがない。不安だけが募りに募る。不安げに揺れる瞳に気付いたのか、腕の中で大人しくしていたイヴモンが、栞を見つめにこりと笑った。ぬいぐるみのふりをしているのは疲れるらしいが、普段から栞のバックの中で静かにしているだけあって、違和感はない。
 バタバタ、とおばが動く音に、そちらに目を向けた。一馬の試合を観覧するため、お弁当作りに勤しんでいた。


「あ、そうだ!英士くんや結人くんのお母さんは何時ごろ行くのかしら。電話してみましょう」


 息子の活躍ほど嬉しいものはない。おばはルンルン気分だった。そんな様子を見ていると、こちらも気分が高揚してくる。―一馬のサッカーをする姿を見るのは好きだ。そして本当は来週の予定だったのだが、今日、身内の関係で一か月ばかり母国に帰っていた英士のイトコも戻ってくるのだという。久しぶりに会えるということだ。
 昨日のことは不安であるが、太一ならばきっと大丈夫だったのだろうという過信があった。根拠などないのだが。


「あら?」


 とおばの声。栞は再び顔だけ、電話の方へと向けた。おばは受話器を片手に、何度も首をかしげていた。「電話番号間違えたかしら…」、と壁に貼られた紙に書かれた番号と、自分の手元を見比べる。


「おかしいわね、繋がらないわね…」
「どうか、したんですか…?」
「ええ。電話の調子がおかしいの、さっきから何度も繋がらなくて。英士くんちにも結人くんちにも繋がらないのよ。そういえばさっき栞も電話していたわね、その時もダメだった?」
「…はい。繋がりません、でした」
「そう…」


 深いため息と共に受話器は置かれる。
 この深い霧と何か関係があるのだろうか。それともどこかで天気が崩れて、電話線がやられてしまっているのだろうか。―天気予報を見てみようとリモコンを手に、電源ボタンを押せば――ザーザーという耳障りな音を立て、映像の欠片もない。あまりのノイズ音に、思考回路が止まった。戸惑って電話台のところにいるおばの方へ再び顔を向ければ、彼女は未だ電話と格闘していた。
 栞も自然と眉がよった。

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