094 大事なのは、ふたりがここにいるという事
一馬はここにはいない。テレビも消してある。この少年の声は、一体、どこから聞こえてくるのだ。
「―モう黙っテイる意味もナさそうだネ」
口を開いたのは、今まで黙り込んでいた栞が抱きしめる白い塊だった。
「イヴモ、!」
栞は慌ててその口を塞ごうとするが、その行動を制止するように、彼は体全体を震わせた。
「!? ぬい、ぬいぐるみが、喋った!?」
「今は説明してイる場合ジャないかラ、省くヨ。――恐らク、アイツらハこの家には入ッてはコれなイ」
「どうして、」
栞の腕の中にいた白いけだまり―もといぬいぐるみが流暢に話出し、戸惑うおじとおばは、この際見えないふりをして、栞はその背中に問いかける。彼はいつでも正しいことを言うが、根拠はどこにあるというのだろう。
問いかければ、彼はぴょん、と栞の腕から飛び出て、窓に張り付いた。白い毛が、ぺっとりと窓の水滴によって濡れた。彼は真っ青な瞳で、流れゆくバケモンの軍団を見つめていた。
「…アイツらガ、ヴァンデモン級なラまだしモ、バケモン程度じャ栞の力が作動シていル家には入っテこれなイってことサ」
「私の―力?」
「ウん。君は『守人』だかラ、無意識にそノ力はこノ家を守っていルっテことだヨ」
イヴモンの言葉に、栞は家の天井を見上げた。目には見えない栞の力が、この家を守っている――?
「証拠に、アイツらはコの家が見エていなイらシいネ」
「じゃあこの家にいれば――おじさんとおばさんは、安全、なんだね」
「ソういウこと。まア、栞も――」
「……、ううん、私は、いかなきゃ」
「栞―」
イヴモンの嗜める声に、首を横に振った。「人がたくさん連れて行かれてる―。きっと八人目を―ヒカリちゃんを探していて、私のことも、探してる」こうしている間にも、たくさんの人たちが傷つけられている。彼らにとって他の人間など価値のない存在。下手したら、命を取られかねない。
「何を…何を言ってるんだ、栞」
「…おじ、さん。おばさん」
「栞…」
戸惑うように自分を見つめるおじとおばの瞳。『あの時』と同じように、それは、拒否の眼差しなのだろうか。―思わず、目線を下にずらしてしまった。
脳内を埋め尽くす単語は、 ノイズがかりで聞こえづらいけれど。
―――…大丈夫よ。私たちが守るから。
―――…俺たちが囮になろう。
―――…栞、あなたは今日から私のたちの娘になるのよ。今日から、『真田栞』になるの。
―――…栞、ほらなんでも欲しいものを言いなさい。一馬はサッカーボールを買ったんだ。何かないのか?
それでも覆いかぶさるのは、彼らの心から栞を思って発された言動の数々だった。ゆっくりと、目線は二人に直した。確かに、彼らはここにいた。拒否の目なんてしていない。いつだって、彼女の安全を危惧して、思いやってくれているのだから。
此処にいれば、確かに栞の安否は確保される。だが栞が此処に居る限り、ここに隠れている限り、ヴァンデモンはこの世界から立ち去ることない。そして消え去ることもできはしない。友達も、愛する家族も、兄を待たなければならない世界さえも、守らなければいけないのだ。他の誰ではなく、栞自身の力で。ぎゅ、と手のひらを握りしめた。
「…イヴモン、前に言ってたよね?私が生きていれば、それいいって。ほかは換えがきくけど、私は、死んだらデジタルワールドが終わるって。だから、私のことは、嫌われたって守るって」
「……」
「でもね、イヴモン。私は、知ったんだよ。泣き虫で、臆病だけど、こんな私でもやれることはあるんだって。だから、私もそう。イヴモンに嫌われたって、怒られたって。守りたいの」
例えば自分だけ生き残った世界を想像してみる。何の価値を見いだせよう。たった一人、生きている世界で、己は何を為せば良いのだろう。なら、そんなもの、くそくらえ。自分だけが生き残った世界に何の意味などありはしないのだから。
「栞、」
少しだけ潤んだ瞳で、おばは自分を見た。途端に寄せられたのは、イヴモンと同じく眉だった。もう何年共に過ごしたのだろう。きっと栞の考えていることなどお見通しで、だからこその表情であることも、栞も知っていた。
back next
ALICE+