097 彼の世界を変えるひと




「『守人』―」


 デジタルワールドの均衡が、崩れ始めていた。巨大な海原は波をうち、大気はふるえ、地は唸る。
 心でつながっていたはずの秩序の気配が、ふっと消えてしまった。瞬間、駆け抜けたのはもう一人の『秩序』との約束だった。しかし、己の中の力が抜けていくのが分かる。どうしようもできなかった。


「く、」


 声が、聞こえぬ。絶えず聞こえていた、あの人の声が。優しさに溶けていた曇りのない声が、聞こえぬ。
 ――東の空が闇に染まりつつあった。低い龍の雄叫びが、黒い闇の中にとけていく。


「もり、び、と―」


 姿が、見えぬ。
 目の前で笑いながら花畑を駆け抜けていくあの方が。見えぬ。
 ―視界が閉ざされていく。


「すまぬ、 『狩人』 、 」


 東方を守護する究極体デジモン―チンロンモンは、闇の力の前に封印されてしまった。


「やぁっと封印されたんだねぇ」


 無邪気な声の持ち主は、ぐーっと背伸びをしてから、口元だけ笑みを浮かべた。瞬きは必要ない体だから、どうも目元は笑っていないように見える。
 先ほどまで大きな龍がのたうち回っていた様子を見下ろして、楽しげに笑う。


「いよいよだ…」
「邪魔者はいなくなった、我らの妨げとなるものはもういない」


 闇に覆われた空に手を伸ばし、拳を握りしめる。その瞳に写されるのは、手に入れた『光の力』、彼らにとっては余計なものであれど己等を増幅させるものである。


「随分と面倒だったな、あれが『狩人』の残り火か」
「はは、やつは『守人』のためならば何でもするからな。しかしもう何も恐れることはない、やつは『この世』には『いない』」
「馬鹿なやつだったよねぇ。自分を犠牲にしてまで、守人のためってさ。欲しければ奪えばよかったのに」
「笑っては失礼だぞ。狩人とて紛うことなき我らの『秩序』なのだからな」


 地を這うような笑い声が、暗闇の中にとけていく。ばっと両手を広げたのは、愉快な道化師。彼は高らかに、歌うように告げた。


「さあ、始まるぞ!!世界の再統合だ!!」


 真っ赤な紅を引いた唇が、闇に浮かんだ。
 さあ、手に入れようじゃないか。あの少女を。 そして、世界を。


★ ★ ★




 冷房は消えているのか、ビックサイトの中は蒸しているように暑かった。一馬はどこにいるのだろう、他の子供たちは?バケモンに見つかりそうになっては物陰に隠れ、彼らが立ち去ったのを見送っては、再び探索を開始する。


「この展示場の中で、一番大きな場所に集められているのだとしたら…」


 自分よりも背の高い場所にある案内図を見上げ、ポケットにいれたままのデジヴァイスを取り出した。おそらく、この場所に選ばれし子供の誰かがいるのならば、同じくデジヴァイスを持つもの同士、居場所を感知できる。


「栞、デジヴァイス…」
「うん…。誰か、――誰かいれば」


 ぎゅ、とデジヴァイスを強く握り締めた。守人の願いを、デジヴァイスは叶えてくれる…。ほのかな色を灯したデジヴァイスは、ぽう光る。それは、淡い桃色だった。栞はこの光を知っていた。この光は―ミミだ。


「…ミミちゃん、だ。ミミちゃんが、いる」
「ミミ?」
「そこにみんな、いる」


 栞の真剣そのものの瞳に、イヴモンは少しだけ眉を寄せた。「栞、分カってイると思うけド」言葉を濁らせたイヴモンは、栞よりも上空を旋回し、辺りを見回した。


「ミんなガいルトいう事ハ、そこニあいつラもイルというコとなんだカラ。気を引き締めて」
「…うん」
「―僕がさっき言ったこと、思い出してね」


 遠くを見つめる蒼い瞳は、鋭く光る。決意がないわけじゃない。覚悟がないわけじゃない。 でも、ぞわりと身の毛がよだつ。データの消滅と思えば怖くはないが、命の消滅とそうは変わらないだろう。たった10年程度しか生きていない少女にとっては、相当の覚悟が必要とされた。
 いつも不安に思った時、握り締めるペンダントが胸元にはなかった。おばに預け、守ってもらうよう祈りを込めたのだから、自分のもとにあったら困る。 だから変わりにデジヴァイスを握り締めた。ぞわりと何かが震えた気がした。 己の黒い部分が、むき出しにされたような。
 あの日の暗い部屋に置き去りにした自分が、そっと、見つめてきた。

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