099 儚さ、脆さ、罪深きその名
苦し紛れに呟いた言葉は風にさらわれた。それは呪歌であったから、拾われずに済んで、どこかほっとしている自分がいた。
「……ごめんなさい」
男はそっと自分の傍に立ち、優しく頬に触れる。何故だろう、心が痛んだ。
「私には……もうこの世界を守れない」
自分は小さく呟いた。男はまるで分かっていたかというように、小さくうめいた。謝るなと。そう告げた。
「往くときは、一緒だ」
「……ごめんなさい」
「何度も言わせるな、―謝るな」
静かな夜の、静かな出来事だった。
★ ★ ★
冷たい部屋の中で、どれほど待たされているのだろう。( イヴモン、 )勝手なことをして怒っているのだろうな。無謀だと叱咤されるかもしれない。
でも、気持ちが抑えれきれなかった。何かを喪ったとしても、栞は自分の中から人間性が失われることを恐れた。自分勝手にもほどがある。
「……馬鹿だな、私。馬鹿だよ、ほんと」
これがどれだけ危険なことか。承知しているつもりなのに。失笑を浮かべて、あたりを見回した。やはり、というかなんというか。ずいぶん、手厚い歓迎だと思った。ご機嫌取りのためなのだろうか、綺麗に整えられた部屋の中は、暗いにも関わらず、栞にはよく見えた。
「……イヴモン――」
ぎゅ、と自分自身を抱きしめ、パートナーの名を声に出して呼んだ。ひょっこりと現れて、「栞」そう名を読んでくれると待っていたのに。あの純白に包まれた白い存在がいないことがこんなにも心寂しく、自分の精神を左右するものだなんて夢にも思わなかった。――それほどまでに依存していた。
イヴモン―と再度名前を呼んだとき、ギィィと不穏な音がして、栞は身を縮こまらせながら振り返る。暗闇の中で目を凝らしてみれば、真っ赤に縁どられた唇が見えた。「…ヴァンデモン」多少の憎しみを込めて、その名を呼ぶ。それは、やがて、栞の目の前に現れ、恭しくも彼女の前でひざを折った。
「ご足労賜り恐悦至極に存じます、守人」
「……ッ」
「…なんとも愚かな娘よ。己の危険を顧みず、自ら名乗り出るとはな」
頭を垂れているためヴァンデモンの表情はうかがえないものの、声色で彼が愉悦感に浸っているのが分かった。――馬鹿にされている。否、愚かであることは自分でも重々承知の上だ。それでも彼女は見捨てることができなかった。
「愚かな人間のために、愚かな世界を見捨てる、愚かで偉大なる守人、我等が源よ――」
ヴァンデモンは立ち上がり、大きく腕を広げた。大きいのは背丈だけではない。その威圧感だけで押されそうになる、心がつぶれる。
「……おねがい、だから」
何とか絞り出した声は震えていた。怖いなんてものじゃない。独りという孤独感が、更にそれを煽った。
「なんだ?」
「…お願い、だから。もうこれ以上みんなを苦しめないで、八人目を傷つけないで!」
「―――偽善の塊だな」
「偽善だってなんだって良い!もうこれ以上、誰かが傷つけられる姿なんて…っ見たくない…っ」
「そうやって守ってきて何になった?誰がお前を助けた?――皆、お前を見捨てたではないか」
「……そんなことっ」
「だから『お前』は絶望し、『お前』は捨てたのだろうあの世界を」
「…え、?」
「一度捨てた世界を守るというのか?なんとも笑えた話だな」
紅の引かれたように鮮血の唇が弧を描く。―乗せられちゃだめだ、いいように言いくるめられるだけだ。拳を握りしめて、きっと前を見据えた。目の前は、大きく、揺らいでいた。
「――守る、守りたい。前がどうだったとかそんなの今はどうでもいいよ!」
「そうか。…やはり愚かな娘だ」
「っ」
何を言ったところで、今の栞ではたかだか小娘が喚いているだけにしか聞こえないのだろう。ヴァンデモンはさらに笑みを濃くする。
「…そうだ、守人。そんな愚かなお前に、最高のプレゼントを用意した」
「プレ、ゼント…?」
身を固くする栞に対し、ヴァンデモンは笑うだけだ。「見よ」――彼は、栞の脇を通り過ぎ、引かれていたカーテンを開けた。
「…っ!?」ガラスの向こうに、 向こうにいたのは。
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