113 花と詐欺師




 尊い二体のデジモンの犠牲を背負い、子供たちを包み込んだ結界はダークマスターズから遠く離れた地点へと運んでいく。
 なぜ、と栞の口唇から洩れ、思わず空はその言葉の意味が理解できず、もう一度聞き返した。依然として昂った紅蓮の瞳が空に向けられる。その瞳の奥から燃え上る憎悪の感情にはすぐに気づけた。その感情はおそらくはダークマスターズに対するものであろうが、空は己がその瞳で見られるとは思いもよらず絶句した。
 彼女の様子が度々変わることを、空は理解しているつもりだった。彼女に異変が起こることを受け止めると決意した。


「なんで!なんで、邪魔をしたの!?空が邪魔をしなければピッコロモンは死ななかったかもしれなのに!私が、私があんなやつら、倒して!!」


 激昂する栞に、空はなんだか泣きたくなってしまった。―これが、彼女の、負の部分。温かくて穏やかな守人の、闇。泣きたくなるほど悲しく、辛い感情を持つ秩序。これを皆、狙っているのだ――。
 空は一度目を閉じる。自分に向けられた憎悪の感情が痛いくらい突き刺さる。すぅ、と大きく息を吸って、そして。

 ―パシン!

 鈍い音が結界の中で響き渡る。ただオロオロとそんな二人を見るしかできない他の子どもたちはその音に目を見開いた。呆然としているのは、己の右頬を抑えた栞だった。彼女の目の前に立つ空は、振り上げていた手を彼女の肩において、強くつかんだ。


「そんなの――」


 栞のことが好きだ。友達として、仲間として、優しくて温かい栞のことが大好きだ。だから変わっていく彼女なんて、見たくなかった。
 “守人化”とあの日、彼女のパートナーは言った。真っ白で穢れのない彼女のパートナーは、泣きそうな声で、そういった。段々と変わっていく栞。眠れなくなった彼女。弱くて、優しい子。守らなければと思っていた。けれど彼女は泣きながら怯えながらも前に進んでいく。それが、彼女の使命なのだと悟った。無意識のうちに危険に飛び込んでいく栞を見ているとどうしようもない焦燥感にかられる。栞の死で、世界が終わると聞いた。実感など湧かなかった。世界なんて大きいもののことよりも、栞という空の大切な友が死んでしまうということの方が大きかったからかもしれない。
 もし先ほど己が栞を止めていなかったら?もしかしたら栞はダークマスターズの中に飛び込んでいって、いくら守人といえど、究極体四体なんて絵空事で、栞自身が捕まってしまって、それで――考えだしたらキリがなかった。
 空はキッと顔をあげて、しっかりとその紅蓮の瞳を受け止めた。赤い瞳の中に憎しみはなかった。変わりに戸惑いがあった。


「そんなの、友達だからに決まってるじゃない!あなたのことを死なせたくないから!大切だから!!」


 その言葉を受け、栞はまるで憑き物が落ちたかのようだった。瞳から赤みが引いてゆき、普段と変わらぬ灰色がそこにあった。栞は、くしゃりと顔を歪めて、両手で顔を覆った。両手だけでは抑えられない涙が次々と地面へ落ちていく。
 ―これが、この世界の、全てなのよ。自分では何もできないから、いつも泣いて、後悔している。小さくて、ちっぽけな存在なの。優しくて、弱い、私の大切な親友なのよ。
 空はそんな小さな栞を抱きしめた。力なく、それでも栞は空にすがって泣いた。わんわんと大きな声をあげて泣いた。


「みんな、守ってくれたの。私たちはそれを返さなきゃ。ダークマスターズを倒して、世界を救うのよ。それが私たちに出来る、唯一の恩返しなんだから…」


 落ちた涙は結界をすり抜け、荒廃した大地がそれを受け止めた。草木がすっかり枯れ果ててしまったその地面に、小さくて、可愛らしい苗が芽吹いた。

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