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 いつメタルシードラモンが襲ってくるとも知れない空間にしては、随分と和やかな空気が流れていることに対して、どこか他人事のように感じていた。


(気づくと、怒りや、憎しみが、あふれてくる)


 じんわりとにじみ出る汗を押し隠すように、掌を握りしめて目を閉じた。そっと誰にも気づかれないように息を吐く。そうして自分を落ち着けないと、意識が飲まれていく気がしたからだ。海の中で消え去ったはずの、あの黒い感情と黒い何かが、今も栞の隙を狙っている気がする。そうしてそその感情を認めてしまったり、受け入れてしまえば、きっと栞の中で全ては終わる。栞は完全に栞でなくなる。それが、怒りや、憎しみを糧にしているから、そうした感情を押し込めようと、再びそっと息を吐いた。


「栞さん!」
「…ヒカリ、ちゃん?」
「見てください、おさかないっぱい取れましたよ」


 隣にちょこんと姿を現したヒカリは、背後を指さしてにこにこと笑う。
 彼女はたとえて言えば、確かに光だった。栞がなんとか抑え込んだ憎悪の感情を、いとも容易くどこか遠くへ放り投げてしまう。たった笑いかけてくれただけで、声をかけてくれただけで、栞の中のどろどろとした黒い塊は顔を出すことができなくなるようだ。――兄とよく似た彼女のこの清らかな光は、栞にとっての救いだった。


「…ヒカリちゃん、」
「はい?」
「あの」
「はい」
「…ありがとう」


 ただ声をかけて、ただ魚を示しただけの自分がなぜお礼を言われるのかヒカリには分からなかったので、もちろん首を傾げた。だが、あまりにも消え入りそうな声で、そうして弱弱しい笑顔で言われたから、何も聞かず、もう一度笑顔で頷いた。
 「だいじょうぶです」ヒカリは閉ざされた拳の上から小さな手を重ねる。下手をしたら栞よりも大人びた表情で、年下のヒカリは笑う。「ね?」その笑顔は、栞を守るように。
 心の外殻に、薄い膜が張られる。真逆の位置に存在するからこそ、磁石のように引き寄せられ、重なったその手からふたりを繋ぐ糸が生まれた。

 ぴちゃん。

 その時、水滴が落とされる。拡がる音の輪が、警笛を鳴らした。ぴくりと栞の肩が揺れたので、繋がった手からヒカリへと伝わる。


「栞さん、どうし―」
「みんな、大変だよ!」

 
 問いかけと、海面から顔を出したゴマモンの叫びと、同じタイミングだった。ゴマモンが顔を出したことで丈が釣り糸を引っ張られて海へ転がり落ちていったが、それよりも大変という言葉の方に気を取られ、誰も丈を気にも留めなかった。


「敵がやってくるんだ!!」
「何!?」
「どこ!?どこ!?」
「…っあたりには何も見えないけれど…」


 途端に子供たちに緊張が走る。見たところ、近辺で不穏な空気は漂ってはいないようだが。


「…魚たちが後方200の距離でメタルシードラモンの手下を見かけたそうです」


 静かなホエーモンの声が響いた。


「ええ!?」
「どうしよう…」
「タケルゥ…」
「ここもすぐ見つけられるでしょう。みなさん、私の中へ。潜行して振り切ります!」
「うん…!!」


 再び子供たちはホエーモンの中にかくまってもらい、そうして海底へと出立する。
 ギュウ、と強く握りしめられた手から、黒い感情が生まれる。どうか、顔をのぞかせないでほしい、と隣にいたヒカリに触れてみる。自分よりも幾分も幼い少女は首を傾げ、それからにっこり笑って、栞の手に手を重ねる。先ほどと同じように。胸のうちから、すっと荷が下りる気がした。このままでいれば、この黒い感情は浄化される気がした。ヒカリが傍にいれば、手を繋いでいてくれれば、自分は変わらないでいられるとさえ。
 穏やかに見える海の底で、今まさに闇が渦巻いていた。


2016/05/08

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