episode 11
汚点の培養


始めに気づいたのはジニーだった。クレアがいない、その言葉にモリーはすぐさまあたりを見回す。あの銀色の髪が、どこにもいなかった。口に手を当てて、青ざめる。
二人が欲しがった本を買って外に出ていくと、笑顔を見せたジニーとは裏腹に、怯えた表情をしたクレアがいた。どうかしたの、と問いかける前に、クレアは自分に気づき、すぐさまぎこちない笑顔を見せたので、あえて聞くのはやめた。逆に聞いてはならないと、そう思ったのだ。変わりにきちんとその様子を見ていなければと、心に決めていたというのに。右腕はかった本を携えていたし、左手はクレアよりも幼いジニーの手を握りしめていた。クレアはジニーを掴んでいるものとばかり思っていた。思い込んでいた。失念だった。お昼に差し掛かったダイアゴン横丁は人ごみであふれ、その間に手が離れてしまったのかもしれない。いつからいなかったのかも分からない。この人ごみでは探しだすのも…。

「ママ…」
「…大丈夫ですよ、ジニー。まだそんなに遠く行っていないはずだから、人に聞いてみましょう」

不安を表情に出すわけにはいかなかった。幼い娘が泣きそうな顔で自分を見上げていたからだ。しっかりしなくては。お腹を痛めて生んだこの子を守るように、預かり受けたあの子も同じように守る。ジニーの手を強く握りしめて、モリーはすぐ近くにいた男性に声をかけた―。

  


クレアは暗い路地に迷い込んでしまったみたいだった。あの本屋でのコソコソとした声が耳にまとわりついて以来、歩くたびに人の視線が気になった。同じようにクレアを見て、厳密にいえばクレアの瞳を見てコソコソと話す人もいた。モリーに心配かけるわけにもいかず、何もいえず、ただ黙ってあとをついていた、はずだった。ダイアゴン横丁に人が溢れてきて、気づいたときには、もうモリーとジニーの姿はどこにもなくて、人に流されるままにここにいた。
ここがどこなのかもわからず、どうしていいかも分からず、クレアは途方に暮れていた。季節は冬、明るくて温かいダイアゴン横丁とは異なり、この場所は暗くじめじめしていて、余計に寒さを感じずにはいられなかった。こちらでもすれ違う人が皆、自分を見ていた。まるでナメクジのようにねっとりとしたような視線だと感じた。クレアはその場に居続けることが怖くなって、少しだけ足早に歩き出した。

「おばさん…ジニー…どこ…?」

声に悲しみが含まれ、瞳にはじんわりと涙が浮かび始めた。歩けど歩けど、同じように陳列された建物ばかりで、人々は鬱々とした表情で自分を見つめる。終わりが見えなかった。光が見えなかった。クレアは怖くなってとうとうしゃがみこんで泣き出してしまった。

「…お嬢さん、どうされたの?」

その時だった。
女性の声がすぐ上で聞こえて、クレアはゆっくり顔をあげる。女性は黒いローブで全身を包んでいて、ベールで顔は隠されており、その表情は窺えない。咄嗟に、クレアは立ち上がって、その身を引いた。

「あら、どうされたの、お嬢さん…」

冷たい声色だった。クレアはふるふると首を横に振って、その脇をすり抜けようとした。女性との体格差を生かして、クレアは逃げることができた。

「そんなにお急ぎにならないで。ゆっくりお話ししましょうよ」

逃げることができた、はずだった。気づいたら、女性はまたクレアの前に立っていて、自分を見下ろしていた。

「や、やだ、こわい!」
「…ねえ、お嬢さん。あなたは今幸せなの?」

冷ややかに問われ、クレアは震えながら首を傾げる。言葉の意味や真意が理解できなかった。女性はゆっくりとクレアに近づいてきた。クレアはしゃがみこんで耳をふさいだ。

「やっ、こっち来ないで!」
「全てを忘れて、幸せなの?」
「分かんないよ、おねえさんのことば、わかんない!聞こえないよ!」
「でもね、お嬢さん。あなたは逃れられないの」

女性は同じようにしゃがみこんで、クレアの耳元に唇を寄せた。ふわ、と鼻をついたのはクレアの記憶の隅でうずめいた蘭麝の香り。反射的にぎゅっと目をつむって、首を何度も横にふる。

「いつか思い出す日がくるはずよ」

幼いクレアの耳に、女の冷たい声が突き刺さる。――わからない。両腕で己を抱え込むように抱きしめた。それは無意識のうちの自衛だった。

「あのお方が唯一愛を手向けた娘。あなたの運命は、あなたのものではないのだから」

どこか憎しみを抑えるような、どこか悲しさを抑えるような抑揚のない声を、クレアはただ畏れた。ただ闇雲に何かをぶつけてくれた方がいい。冷たい声はクレアを責めているようにさえ感じたのに、強くそう思わないのは恐らく彼女が感情を抑えているからだろう。彼女はすべてをなくした瞳を、ただクレアに向けていた。

「何をしているんだい」

その時、クレアの耳に柔らかな声が届く。…誰だろう。とても優しい声だ。すべてを包み込むように溶け込む声に、赤い目でうかがうように見上げた。

「その子に触らないでほしいな」
 
かばうような男性は、どこか細くて、どこか頼りなかった。ローブが継ぎはぎだらけだったからよけいにそう思ったのかもしれない。
それまでクレアに話しかけていた黒いローブを着た怪しげな女性は立ち上がると、クレアに一瞥をくれ、踵をかえした。やはりなんの感情も見受けられない瞳に、クレアの体は震えた。瞬間、肩をぐっと引き寄せられ、暖かさが身にしみる。見上げれば、自分を庇った男性が、自分を引き寄せているのが見えた。優しい声に似合わず、厳しい表情をしていると思った。

「それでもあのお方からは逃れられない。それがあなたの運命なのだから」

女性はそう言い残し、ノクターン横丁のはずれへと消えていった。

「大丈夫かい?…歩けないようなら私の背中に乗るといい、背負っていこう」

男は、先ほどまでの厳格な表情を崩し、クレアににこりと笑った。顔中が傷だらけのその人は、とても優しく笑ったのだ。一瞬にして、クレアの涙腺はまた崩壊して、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。――こわかった。よく分からないのに、とても怖かった。男性はあわてたように、クレアの視線に合うようにしゃがみこんだ。

「あ、ああ、泣かないで。どうしようかな…あ、ほら、チョコレート。落ち着くよ」

ぐす、と鼻をすすりながら、目の前の男性にしがみついた。なぜだろう。この大人は、とても心が落ち着く。男性は一瞬だけビックリしたようだったが、すぐに身をほどき、クレアの背中に手を添えてリズミカルにたたき始めた。

「怖かったね。でももう大丈夫、私がいるよ」

男性の声は脳内に暖かく響き渡る。冷めきった指の先まで温めていった。温かい手が頭にのぼり、ゆっくりと撫でられるうちに気持ちはだんだんと落ち着きを取り戻す。

「君のご家族に聞いてね。探しにきてみてよかったよ。ほら行こう。君の“家族”が待っているよ」

頼りない恰好とは裏腹に、たくましい力で引き上げられ、クレアは立ち上がった。男性の言葉に、クレアは頷いた。なぜだろう、この人は安心する。今までの恐怖が、消えていく気がした。
男性に手を引かれて、暗闇から光の中へと溶け込んだ。

「ああ、クレアッ!!よかった、本当に無事でよかったわ…!!」
「おばさん…!」

ふっくらとたモリーは遠目から見てもすぐにわかった。クレアはつないでいた手を放して、すぐに駆け寄った。モリーの目にはうっすらと涙が浮かんでいる。強く、強く抱きしめられた。「良かった、本当によかったわ!」暖かい匂いと優しい手のひらに、クレアは自然とうれしくなった。

「いったいどこへ行ってしまっていたの?」
「分か、らない…です。でも、おじさんが助けて… あれ?」

振り返ったら、もうそこにはその男性はいなかった。人ごみに紛れて、消えてしまったのかもしれない。お礼、言ってなかった。眉を下げたクレアに、モリーは気遣わしげにもう一度頭を撫で、ジニーも背伸びをしてその頭を撫でた。

「さあ帰りましょう、クレア。怖い思いをしたわね。…ああ、その前にアイスを食べましょう!いい思い出も作らなければいけないわ」


アイス、その単語を聞いてクレアの表情は少しだけ晴れた。モリーは今度こそ離すまいとクレアの手をしっかり握りしめ、またジニーの手もしっかりと握りしめた。

  


彼は、銀色のおさげが消えていく方角を見つめながら、少し悲しげに笑った。今でもあの日々のことは昨日のことのように思い出せた。できることなら戻りたい。けれど、それは叶わぬ夢であることを彼は知っていた。

「クレア。君は今、幸せなのか?」
―――…あの、さ、リーマス。わたしたち、友達、なんだから、遠慮する必要ないよ?

声が重なって聞こえた。彼は目を閉じ、それから踵を返した。つぎはぎだらけのローブが人ごみの中に消えていった。

―銀色の髪をなびかせながら、遠慮気味に言ったのは、どちらかといえば君の方だったよね。“クレア”。



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