episode 15
雪片は脆い


「ただいま帰ったよ、モリー」

案件を無事に済ませ、ついでに食事もいただいてきたアーサーの帰りは遅かった。だが何も案ずることはない。先に戻ったクレアがきっちりと伝え、役目を果たしてくれたことだろう。もはや我が子とも呼べる少女の成長ぶりをアーサーは心から喜んだ。

「アーサー!ずいぶん遅かったのね、連絡くらい寄越してくれてもよかったでしょう」

呆れたようにモリーはアーサーを出向かえてくれたが、その言葉の内容に、アーサーは首を傾げる。

「クレアが伝えてくれたはずだろう。あの子はどうした?」
「クレアならまだ戻ってきていませんよ。あなたと一緒だったのでしょう?」

呆れたように、再びモリーは言った。

「確かに書類を渡しにきてくれたが先に帰ったはずだ、まだ戻ってきてないなどそんなはず――」

アーサーの顔から血の気が引いていく。
クレアは確かにセドリックに連れられ、家に帰ったはずだ。食事の際、感謝の気持ちを持ってありがとうと告げた時、セドリックもそう言っていたではないか。

「急いで…」

だとすれば、と一つの可能性が、胸のうちから飛び出した。

「アーサー?どういうことです?一体、クレアは」
「ダンブルドアに連絡を!」
「アーサー!?」
「どういうことかは私にも分からない。だからとにかくダンブルドアに連絡をとる!」

理由は分からない。恐らくアーサーも知らない。だからこそアーサーの言葉にモリーは青ざめた。目を離してはならなかった。一人になどしてはいけなかった。直ぐだと安心してはならなかった。―いつどこで、あの子を奪われるかしれないというのに。
父親であるアーサーと、そのアーサーに忘れ物を届けにいったクレアが中々戻らないから食事にもできず、ずっと待ちぼうけを喰らっていた子供たちがぞろぞろとリビングから現れた。慌ただしく、そして青ざめた両親を見て、ビルは驚いた。

「―どうかしたの?クレアに何かあったの?」
「…ビル、チャーリー!みんなを連れて部屋に戻っていてちょうだい。ご飯はもう少し待っていてね。いい子だから、静かにしているんですよ」
「ママ?」
「私はもう一度エイモスのところへ行ってくる。モリー、あとは頼んだよ。みんな、悪いね」
「パパ…?」

クレアに何か起こってしまったのは確かだ。だがそれだけで“ダンブルドア”がどうして出てくる?それよりも魔法省ではないのか。困惑するビルに、モリーはもう一度、いい子だからと悲痛な顔で言ったので、ビルは不信感を抱きつつも両親の言葉に従い、弟たちを連れて自室へと戻っていった。

  


無事に屋敷を抜け出せたクレアだったが、すぐに目の前に広がった暗い森の中で迷子になってしまった。行けども行けども広がるのは深い森。雨に打たれてすっかり体は冷えてしまっていた。

「…さむいよぉ……はっくしゅっ」

寒さでクレアの鼻は真っ赤になって冷たくなっていたし、手も足もかじかんでしまってうまく動かせない。ぶるりと身を震わせて、ついにはその場にしゃがみ込んでしまった。
幸せいっぱいだった胸の中は、今のこの空模様と同じく土砂降りだ。ゴロゴロと恐怖を煽る稲妻が走り、クレアは耳をふさいだ。走っている間にゴムがとれてしまったらしく、いつもの結われているおさげは解けてしまっていた。雨に濡れる銀色の髪が、じっとりと顔にまとわりついた。

「おじさん…おばさん……びる、ちゃーりー、ぐす、ぱーしーぃ、ふれっど、じょーじ、ろん、じにぃー、おうち、かえりたいぃ」

家族の名を呼んでも、誰もクレアの傍にきてはくれない。

―――…森にはこわぁい魔女が住んでるんだ。魔女はたくさんの人狼やトロールを従えていて、魔女が望んだものをすべてもってくるんだ。

不意にあの絵本の内容が頭に浮かび上がり、先ほどの屋敷にいた魔女が浮かぶ。森。全てが一致する。
寒さと恐怖でクレアはもう一歩も動けなかったが、座り込んだ樹は大きかったので、かろうじて雨は防げた。枝葉から時折クレアの頬に雨粒が落ちたが、降りしきる雨の中に身を投じるよりかはましのように思えた。ひとしきり泣いて家族の名を呼んだあと、クレアは鼻をすすりながら、いつしか意識が遠ざかっていくのを感じた。それは現実逃避のためか、本当に寒さのせいで眠くなっていたかは知れないが、ともかくクレアの意識は微睡みの中へと沈んでいった。

―― さあ、手を繋いでおうちへ帰りましょう ――
―― またあの森のお話をしてあげるわ ――


綺麗な歌声がクレアの目の前でちらちらと降り落ちる。その歌声は粒子のように、雨に反射してきらきら光る。これは夢なのだろうか。クレアは立ち上がって、その歌声に誘われるように歩き出す。

―― 森に棲む悲しい魔女はどうなるの? ――
―― 共に住むものがいるから大丈夫よ。もう一人じゃないわ ――


木々がささやくように揺れる。黄金の光がクレアを照らす。足元を駆け抜ける小さなピクシーたちはくるくる踊りまわりながら、クレアを導いていく。

―― 愛と優しさに包み込まれていたこの記憶を ――
―― いとおしい世界の中にそっと閉じ込めて ――
―― いつまでも守ってみせるわ ――


木々のトンネルを抜けた先には、大きな湖があった。いつの間にか歌声は止み、ピクシーたちも消えていた。
クレアは胸元を抑えながら一歩前に出る。―なつかしさで胸がふるえた。奇妙な感覚が背中を這い上がってくるのを感じ、その場で立ち止まった。

「“さぁ、手を繋いでおうちへ帰りましょう…。またあの森の悲しいお話をしてあげるわ”……」

あの歌が己の口から紡がれる。複雑に絡み合った感情が渦巻いて、何故だか泣きたくなって俯いた。


「君は幸せか」

声が、かけられた。クレアは驚いて振り返る。誰もいないと思っていた。何故ならここは夢の中で、自分だけの場所だからだ。先ほどの女性を彷彿とさせる真っ黒のローブに身をまとった男がいた。不安を隠せないままその問いかけに「幸せだよ…?」おっかなびっくりで返せば、男はさらに問いかける。「全てを忘れて、幸せか」と。同じ質問を、前にもされた。クレアはふるえる体を抑えられなかった。

―――…お嬢さん。あなたは今幸せなの?すべてを忘れて幸せなの?
―――…いつか思い出す日がくるはずよ。

それはあの蘭麝香の魔女か。それとも。

―――…君は幸せか、ウルティア。

瞬間、見知らぬ誰かの言葉が駆け抜けていく。思い出したくない。思い出せない。知らない。知りたくない。様々な感情が張り詰めたクレアの中に宿る。

「いや、やだ、や―――ッ!!!」

震えながら叫ぶクレアを男はただ見つめ、そうして暗闇の中に消えていった。

  


雨に濡れて木の根に横たわる幼い少女を男は見つけ、その口許に手をあてる。微弱だが呼吸はあったことに、そっと息を吐いた。ぐっと抱き上げれば、その身体は風船のように軽い。気を付けなければどこかへ飛んでいきそうだと思った。また、消えてしまうと思った。

「…め……さ…、…とう…ん…。リリー……」

その呟きとともに目じりに浮かんだのは涙。雨によって流され、地面へと滑り落ちる。
しっかりとその身体を抱き、次の瞬間、男と少女の姿はその森から消えた。

魔女はただ、止まない雨を、屋敷から眺めていた。



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