episode 9
桂冠の大詩人


妙な時間に目覚めてしまった。辺りはまだ暗くて、夜の静けさが散らばる。
クレアは冴えきってしまった目をこすって、上体を起こすと、隣でスヤスヤと眠るジニーの顔を見つめて小さく笑う。午後、わんわんと泣いたおかげでその目元は少し腫れぼったい。今ではぐっすり夢の中だ。
(喉…、かわいた…)何か飲み物をもらってこよう。ジニーを起こさないようにベッドから静かにおりて、部屋を後にする。廊下は静かで、とても暗い。
みなが眠りについている時間帯なのだろう、まだ夜が深いことが分かる。クレアが動くたびに軋む音だけが妙に反響する。ドキリとして、やはり部屋に戻ろうか悩む。でも喉がかわいていた。迷った末、クレアは足早にキッチンに向かった。

「……さむい」

水をコップに注ぎ、口をつける。喉のかわきを潤す水に、クレアはほっと息をついた。

―――…この先を真っすぐ行くと眠りの森と呼ばれるところがあって、悪い魔女が住んでるんだ。

その時、フレッドとジョージの声がすぐ近くで聞こえた気がして、クレアはびくりと肩をすぼめる。あれは絵本を脚色した作り話なんだから、怖くなんてない。冬の寒さがクレアの足元を通り抜けていくから、ちょっと怖くなっているだけだ。

「もど、ろ、」

コップを急いで片づけ、リビングに出た。そこで、クレアはソファ越しにあった窓を見てしまった。
―この暗闇のずっと先には、鬱蒼と茂る森がある。そこには、全てを奪う魔女がいる―(こわく、ない)そう、自分に言い聞かせても。

―――…アバダ ケダブラ。

いつか夢で見た、緑色の閃光を思い出した。それは、死の呪文であった。生理的に浮かんだ涙をこらえることが出来なくて、クレアはその場にしゃがみこんで耳をふさいだ。あの緑色の閃光、それは怖いものだ。でも光に映し出されたあの横顔は、とても悲しいもので、とても懐かしいものだった。頭の中が、いろいろな絵具でぐちゃぐちゃに塗りつぶされていく。

「…クレア?」

名を、優しい声で呼ばれた。
階段から降りてきたその声に、クレアは何故か救われた気がした。ぐすと鼻をすすりながら振り返れば、恐らくこの時間まで勉強をしていたのだろう、ビルがそこにいた。

「何してるんだ、こんな時間に」

それは彼女の行動を責めるものではなくて、ただ単に心配している。先ほどまで怖かった軋む音を、何とも思わなくなったのは、きっと一人ではないからだ。

「クレア?」
「ビ、ル…」
「うん、なんだ……って、えっ、今、僕の名前、」
「ふえ、」
「おっと…」

近づいてきた気配に思い切りしがみつけば、大きながクレアを包み込む。人の暖かさに、心が落ち着いていった。

「大丈夫だ、だから泣かないでクレア」
「…う、ん……」
「どうしてこんな夜中にここにいるんだ?眠れなかったか?」
「…のど、乾いて…。お水、飲みたくて」
「そっか」

ポンポンと心地よいリズムに、浮かべられていた涙は引っ込んでいた。

「暗くて怖かったな」
「……」
「僕のところに来てもよかったのに」
「…怖く、ない」
「クレア?」
「…今日、フレッドとジョージが、本を読んでくれたの」
「――ああ」

思い当たる節があった。おそらく、「悪魔の館」のことだろう。この家にあるのは、絵本版に改良された話であるからそこまで怖い話ではなかったと思うのだが、あの双子のことだ、ただは済まないだろうなあと考え、心の中でため息をつく。

「――なあクレア、良い話教えてやろうか」
「……?」

月明かりが窓から差し込むもと、小さなクレアの銀の髪が美しく輝きを持つ。ビルはその頭をなでながら、優しく微笑みを浮かべた。

「魔女はね、可哀想な人だったんだよ」
「…かわい、そう?」
「そう。かわいそう。―生まれつき持ってしまった人と異なった外見のせいで、人から蔑まれて生きてきたんだ」
「さげ、すむ?」
「うーん…意地悪言われるってことかな」
「…やだね」
「ひどいよな。ただ、人と見た目が違うだけなのにな」

クレアは赤い瞳を伏せて、しがみついた手を離した。どこか寂しそうな顔をのぞき込めば、大きな瞳からはまた涙が零れ落ちそうになっている。

「わっ、クレア、泣くなって!」
「…魔女さん」
「…え?」
「――魔女さんは一人が寂しかったの…?」
「クレア、」

クレアは、ただ単に感受性が豊かなだけなのだ。フレッドとジョージの話を聞いて怖がり、自分の話を聞いて悲しがる。普通の幼い、女の子だ。
ふ、と肩の力を抜いて、ビルは小さな体をだきあげた。

「うん、そうだよ。だから…連れていこうとしたんだな」
「―――…わたしも、ひとり、寂しかったよ」
「………、っ」
「でも、もう、わたし、一人じゃない、よね」

置いて行かれるのを怖がる紅い瞳。胸にうちに広がったものは、この小さな女の子を、守ってあげたいという優しい気持ちだった。
額をくっつけ、「当たり前さ、僕たちがいる」そういえば、クレアはやがて小さく笑う。

「ビル、だいすき」
「…参ったな、口説かれちゃったよ」
「くどく?」
「いやなんでもない。―さあ寝よう、明日も早いぞ」
「うん」
「部屋まで連れてってあげるから、行こう」

大きく頷いたクレアは、愛らしく笑う。この子との血のつながりなんてない。弟や妹とは違う。けれど、この子も守らなきゃいけない。否、守ってあげたい。そう思うのは、何も義務感じゃない。自然のことだった。
部屋に戻ったクレアはジニーのとなりで、ゆっくり目を閉じた。――いつか魔女さんのことを理解できる人が現れたらいい。そう思っているうちに、だんだんと眠気がやってきた。
瞼の向こう側で、暗い部屋の中でぽつんと佇む銀の髪をした一人の女性が、こちらを振り返り少しだけ嬉しそうに笑った。



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