僕の世界は狭く君の世界は遠く
あれから何が大変だったかと聞かれれば、それはたくさん大変だったよと言うしかないと思う。仁王くんが、今まで以上に私に接してきてくれたからだ。まるでいつぞやの切原くんみたいに、私が仕事を頼まれてえっさこらさと頑張っている時に、何が面白いのか後ろにいて、時々声をかけてくる。私は器用じゃないと自負しているので、一つのことに集中してやりたい型なんだ。
関わったの、ぶっちゃけさっきなんだぜと心の中でつぶやいてみる。私の返答は、明らかに失礼な言葉だったような気がしなくもないのだけれど。というか苦手とはっきり申し伝えたはずなのだが、彼は微塵にも感じていないみたいだ。やっぱりあれは柳生くんだったんじゃないかな…。
「七瀬、お疲れ様」
秋になったからか、日が暮れるのが少しだけ早くなった。夏だったらまだ明るい時分でも、今ではすっかり暗くなっている。最後のお仕事としてテニスボール拾いを手伝っていたら、幸村くんに声をかけられた。相変わらず、風にジャージがはためいております。あれよく落ちないよね…。「お疲れ様」動きを停止して、彼の方に向き直り、同じように声をかける。ニコリと微笑まれた。うん、相変わらずいろいろな場所に悪い笑みである。
「どうかな、少しは慣れてくれた?」
「あ…あ、え、っと…そ、だね。ちょっとは、かな」
「部員とも仲良くなってるみたいだから安心したよ」
仲良くなってるのかな、あれ。―まあ、ここ数日で結構話すようにはなったと、思う。唯一の鬼門であった仁王くんも、話すようになったし。
曖昧な笑みを浮かべれば、ふわっと幸村くんの髪がなびいた。
「…あ、はは。みんなが良くしてくれるから」
「慣れない作業を一生懸命してくれているんだ。アイツらだってわかってるさ」
「そうだと、いいな」
思わず遠い目をしてしまった。足腰が鍛えられる感じは否めない。ちょっとだけ精神的にも強くなった気がする。だって、毎日、猛者(とかいて乙女と読む)の殺気染みた視線を受けていれば、自然となる気がする。
不意に幸村くんのすらりと伸びた腕が私の頭付近にとどまる。な、なんだ。何されるんだ。 このまま頭ぐわしっとされて、もうちょっと頑張ろうかーなんて笑顔で地面に押し付けられたりするんだろうか…。少しだけビクビクと怯えながら(やっぱり第一印象って大切だよね)、見上げてみれば――確かに、笑顔だった。でも、恐怖を感じるようなものではなくて、綺麗に整った顔に、優しい光が差しているものだった。やがてゆっくりとおろされた手は、私の頭をぽんぽんと撫でた。 ぎ、ぎやああああ…!何これめっさ恥ずかしいんですけど! ま、周り誰もいないよね?ファンクラブの人とか、壁からちらっと見てたりしてないよね?見られてたらこれ確実に明日から陰湿ないじめ確定じゃないか!
心の中は大嵐状態なのだが、そんな私の気持ちを見透かすように、幸村くんはクスリと笑った。 うん、やはり、綺麗な笑い方をするな。
「頑張ってることはちゃんとわかってるから。急ぎすぎないで、七瀬のペースでやってくれれば、十分だよ」
「幸村くん、」
「とりあえず、七瀬の初戦は次の練習試合の時だね。それまでにちょっとでもテニスのルールを覚えること。いいね?」
「うっ…ど、努力します…」
「ふふ。俺たちで良ければいつだって教えるから、気軽に聞いてくれよ」
さらにポンポンと頭を撫でられた。同級生の男子に、しかも相手は人気部活の人気部長ときたものだ。気恥しいなんてもの軽く超えている。思わず固まってしまっている私に、幸村くんはさらに笑みを深めた。
「すまない、精市――と、七瀬もいたのか」
「ああ、蓮二。どうかしたのかい」
「ああ、実は―」
部室から出てきた柳くんが、少し深刻そうな顔をしながら幸村くんに話しかけた。あんまり聞かないほうがいいのかな。でも一応マネージャーだし知っておいたほうがいいのかな。…むむ、理解しがたい部分であるから、とりあえず聞いている体で、最後の走り込みしているレギュラー陣たちを眺めてみる。 …あ、桑原くん、丸井くんにタックルされてズッコケそうだ。仁王くん、あれ絶対走ってない。柳生くんは…うん、紳士だな。走り方が輝いて見える。気のせいではないはずだ。先頭を走る真田くんは、相変わらず気迫がすごい。くわっと目が開いている。これ、今年のホラー映画ベスト10に入るよ。その後ろを走る切原くんがちょっと怯えて見えるのは気のせいでないはずだ。
「――ということだ、七瀬。昼に頼んだことはなかったことにしてもらいたい」
うん?何の話?―すっかり走るの見るのに夢中になっていたから、ぶっちゃけ聞いてなかった。だけど聞いてる体に見えたんなら、それは良かったのですが。
昼、頼まれたこと、だよね。うーん…今日柳くんと会話してないよ、な。というより、クラス違うし、遠いし、うん会うことはまずないと思う。―昼。昼、ねえ。あ、そういえば仁王くんからプリント渡されたっけ。確か練習試合があるから―云々。
「あ、う、うん、了解、しました」
てことはプリント作らなくても良いということ、だよね?―ってことは練習試合なくなったってこと?うん?――やっべえ、やっぱり話はちゃんと聞くべきだった…。だから通信簿とかに書かれるんだよね…先生の話は最後までちゃんと聞きましょうって。その度お母さんはコメントに、せっかちな子ですからって書くけど、誰に似たと思ってるんだろうか。お母さんよりはマイルドな気がするよ。だって私はお父さん似だと自負しているから。
「取るに足らない相手だったとはいえ―」
不意に幸村くんがぼそりとつぶやいた。うん、なんか聞いちゃいけない言葉を聞いたような気がしなくもない。
「この時期に断られるとなるとキツいね」
「―そうだな。三年が引退し、ここから新たに始まるところだったというのに」
「次の練習試合の相手を見つけないとな…」
―なくなった理由は、断られたってことか。え、でもなんで?だって、立海って、強いんだよね?そことの練習試合って言ったら結構得られるもの大きいと思うんだけど。思わずまばたきを繰り返してしまった。マネだから贔屓目で見てるとか、そういうんじゃなくても、近くで見るあのテニスは凄まじいから。
私はよっぽど不思議そうな顔をしていたのか、幸村くんが、困ったように笑った。
「うちの1年生エースね。興奮すると目が充血して、ちょっと攻撃的になるんだよ。それで、ね」
それが、私の疑問に対する答えだとすぐにわかった。一年生エースということは、切原くんということだ。―ふ、と初めて、切原くんと長々と会話をした一週間前のことを思い出した。
―――…アンタ、潰すよ。
先輩たちに囲まれた切原くんは、首を回し、口元から流れる血を拭いながら、そうつぶやいていたことを思い出す。―あの雰囲気から察するに、あれは『ちょっと』どころじゃない攻撃性だと思う。
「それがアイツの強さだから―俺たちが何か言うことはないけど」
「強、さ」
「ああ、そうだ。俺たちに必要なのは勝利―ただそれだけだから」
幸村くんの表情が、目が、ふと冷たいものになった気がして、思わず顔を下にずらした。―あの目を、見るのが、怖い。
「精市」
咎めるような柳くんの声が、私の耳を刺激する。
「―わかってるよ。俺はこのことを真田に伝えてくる。…蓮二、アフターフォロー頼んだよ」
「承知した」
去り際に、ぽん、と肩を叩かれ、幸村くんの方へと視線を向ければ、いつものように笑っていた。―わかってる、つもりではいるのだ。プレイスタイルよりも勝利することが大事。全国三連覇を成し遂げるために。 前を見据えるために、突き進まなければならないのだから。 まだ二週間くらいの付き合いだけど、分からないなりにも、どれだけ真剣なのかは理解しているつもりだから。
真田くんのもとに颯爽と向かっていく幸村くんの背中を見つめていたら、不意に、柳くんがつぶやいた。
「俺たちは赤也のその状態をデビル化と名づけている。その名の通り、悪魔のようになるからな。もちろん、赤也の精神に異常をきたすことに間違いはない、はずだ」
「え…?」
「だが俺たち立海が全国三連覇を目指すために必要な『強さ』だと思っている」
とても重要な話をされている。このまま、そのデビル化を続けていれば、切原くんはどうなってしまうのだろうか…。彼は、まあ確かに馴れ馴れしいというか、良い目で見れば人懐っこいというか、犬みたいというか、―確かに手早そうだし、結構苦手なタイプではあるけれど、それでも、素直で正直な人柄なのだと思う。デビル化というものを見たことがないので何とも言えないのだが、精神がおかしくなってしまうというなら、とてつもなくやばい状況なのだろう。思わず持っていたテニスボールを強く握り締めた。私の表情が強ばっていたからか、目の前の柳くんがふと笑ってくれた。…なんだろう、すごく貴重なものを見た気がする。
「七瀬」
「…な、なに?」
「赤也はお前に懐いているな」
「え、な、え?」
「赤也を見守ってやっていてくれないか」
「そ、れ、ど、ういう、」
思わず吃って問いかければ、柳くんは、やっぱり笑う。
「恐らく、お前が来たことがいい兆候になるはずだ」
柳くんは、俺からも提言してこようと言い残し、その場を去った。
私は、柳くんが最後に小さく付け加えた、「赤也だけではなく、俺たちにとっても」その言葉の意味をただ考えていた。
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