この日、ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールドは悶々と頭を悩ませていた。
昨日はつい流れで帰してしまったが、思えばSAIは旧時代から筋金入りの、ナマエのストーカーだ。インドの地からアメリカにある彼女の家を盗撮盗聴していたような危険人物。
身内と言えど、そんな男と一晩共に過ごして彼女は無事なんだろうか。
ナマエは口がうまいし、SAIの扱いにも慣れている様子だったから無体を働かれるようなことは決して、決してないと信じてはいるが、心配なものは心配だ。
もうすぐ定時。時間になったら、手土産を買って彼女が身を寄せているSAIの家へそれとなく様子を見に行こう。うん、それがいい。
本当は今すぐ彼女の顔が見たい。ドクター・ゼノと、親しみの籠もった可愛らしいあの声で名を呼んでほしい。
ああ、今すぐ彼女の方から会いに来てくれたらいいのに⋯⋯!
「ドクター・ゼノ、お仕事中に突然伺ってすみません」
「ナマエ?おお、少々手狭かもしれないが、楽にしていってくれ」
ナマエが僕に、会いに来てくれた!
⋯⋯後ろにストーカー野郎という余計なおまけはついているけれど。彼女の方から僕に会いに来てくれたという事実は変わらない。
おざなりになっていた作業の手を止めて、比較的状態のいい椅子を彼女へと勧める。
「お構いなく、ドクター。ただ少し、顕微鏡とシャーレをお借りしたくて」
「いいとも。シャーレはこの中にあるものなら、どれでも。顕微鏡はこっちだよ」
「ではこちらのシャーレを。⋯⋯使ったあと、買い取らせていただいてもいいですか?」
「構わないけど、返してくれたらいいよ」
「いえ、気持ちの問題なので。買い取らせてください」
「そこまで言うなら⋯⋯」
シャーレの買い取りを了承すると、彼女は手にしていたそれを後ろにいた人物へ渡した。
「ではSAI、お願いします」
「うっ、うん!まかせて!僕っ、いっぱいにしてくるからっ!」
「ちょっとでいいですよ」
シャーレを持ったSAIが、ラボを飛び出して行く。
一体何を取りに行ったのだろう。ナマエが顕微鏡の前から動かずにいるということは、SAIが採りに行った観測対象はすぐ取って戻ってこれるような何かということか。
気にはなったが、SAIがいないのは好都合だ。これでナマエと二人きりで話ができる。
「新しい世界には慣れたかい?」
「ええ。⋯⋯と答えたいところですが、全然です。ドクターはすごいですね。ロケットを作って、管制官も務められたと聞きましたよ」
「いつまた石化光線が降り注ぐか、当時は分からなくて必死だったからね。君はゆっくり慣れていけばいい」
「あいかわらず、ドクターはお優しい」
微笑む彼女に同じように笑みを返しながら、コーヒーはブラックでいいかと聞く。
「ドクター、本当にお構いなく」
「おおナマエ、僕を同僚にコーヒーの一つも出さない冷たい男にしないでくれ」
「⋯⋯元同僚です。誰も冷たいなどと咎めませんよ」
「おや。では言い方を変えよう。ナマエ、僕は久しぶりに会った君ともっと話がしたい。君が大人しくコーヒーを受け取って僕との会話に付き合ってくれないと、今進めているタイムマシンのプロジェクトに手がつかなくなりそうだ」
「おや、それは⋯⋯ずるくないですか?」
言ってから、嘗ての僕とのやり取りを思い出したのだろう。困ったように眉を下げているナマエへ、彼女が予想している通りのセリフを口にした。
「そうだよ。3700年の間に忘れてしまったのかい?僕は、ずるい男だよ」
いつか口にしたのと同じセリフを吐きながら、彼女に淹れたてのコーヒーを渡す。
「⋯⋯ドクター、記憶していたよりも、ずるくなっている気がします」
ナマエは渋々とコーヒーを受け取ると、そう言って肩の力が抜けたように微笑んだ。
「本当にタイムマシンを作っているんですね」
「うん。困ったことに、研究にかかりきりでそれ以外のことに手が回っていなくてね。もし良かったら、君が僕の秘書になってくれるととても助かるんだが——」
「ナマエちゃん、お待たせっ」
ナマエを僕の専属秘書にする。現状、家族でない僕がナマエをより自然な形で隣に置くにはひとまずこれしかない。
昨日のナマエとSAIを見て密やかに企てた僕の計画は、戻って来たSAIによって妨害された。
走って戻ってきたのか、SAIは頰を赤くして、肩で息をしている。
「ゼノ、悪りい!ちょっと見てほしいところがあンだけどよぉ」
「おおクロム、すぐ行くよ。ナマエ、顕微鏡の使い方は分かるね?好きに使っていていいよ」
「ありがとうございます、ドクター」
クロムの方へと向かう途中、背後で「SAI!こんなにいらないよ!」とSAIを叱る彼女の声が聞こえて来た。
クロムの相談にいくつかのアドバイスをしてドア前から戻ると、ナマエが熱心に顕微鏡を覗き込んでいて、その背中には照れくさそうに頰を赤らめたSAIがべっとりと引っ付いていた。
ナマエは一体何を熱心に観察しているのかとシャーレの中身を見て、あまりの衝撃に固まる。
白っぽい半透明の、粘度のある液体。シャーレの内側が僅かに曇っていて、それが生温かいものだと伺える。
どう見ても、採れたての、SAIの——。
「ナマエちゃんっ!どうかなあ⋯⋯?」
「ちゃんと動いてます。問題なさそうですね」
「じゃあっ!」
「ええ。私の方も問題なかったら婚約を——」
「君たち。さっきから何をしているんだい?」
ナマエへ向けるにはあまりに冷たい声が出た。
しかしナマエがそれに怯むことはまるでなく、彼女は小さく首を傾げた。
「何って、生殖能力の確認です」
どうしてそんなことに。思春期真っ盛りのティーンでもあるまいし、何故そんなものを見ているのか。
「どうしたんだい?君がそんなことで——」
「⋯⋯そんなこと?」
ナマエが僕の言葉を繰り返した。常は穏やかな彼女の、失言を咎めるような口調につい押し黙ると、不気味な間が流れた。
「大事なことじゃないですか。我々を石化させた生命体は石化状態を永遠の命と考えていた。つまり彼ら彼女らにとって生殖能力は重視される機能ではないんです。なら永遠の命と引き換えに失われていてもおかしくないでしょう?」
杞憂で良かったです、と告げたナマエにSAIが恍惚の表情で寄り添う。
まるでナマエを手に入れたと言わんばかりな——。
「ドクター・ゼノ、さっきは秘書の話をいただいてありがとうございました。嬉しかったです、とても――。ですがリミットもありますし、妊娠に専念したいと思います」
「あの25歳までに結婚とかいう馬鹿げたルールの話かい?」
3700年前、僕の元を去った理由。
25歳までに親の頷く相手と結婚しなければならない。
組織内で幅を利かせていた議員の息子を小物呼ばわりするくらいだから、釣り合う人を選ぶのだろうと——釣り合う人間なんているはずもないから、彼女が誰かのものになる日は永遠に来ないだろうと高を括って、日本に帰る彼女を引き止めたりはしなかった。
なのに、たまたま手近にいただけの男が伴侶に選ばれるなら、黙っている訳にはいかない。
「25では遅すぎるくらいです。平均寿命が下がったことで、結婚適齢期も10代半ばから後半までと低くなっています。医療設備だって現代ほどではありませんから、なるべく多く産むには今すぐにでも結婚しないと」
「君の言う通り、この時代の医療設備は旧時代に遥か及ばない。復活液をかければ労働力としての人間がいくらでも確保できるこの時代に、愛しているわけでもない男の子供をリスクを冒してまで産む必要がどこにある?」
「その人たちは、他人じゃないですか。七海の人間じゃない」
他人と言い切った彼女の声が、ラボ内に冷たく響く。
ああ、この感覚は久しぶりだ。
25歳が結婚のリミットだと当たり前のようにナマエが口にした時も感じた、感覚の違いへの静かな絶望。彼女の中の常識を、僕はたまにまるで理解できない。
SAIには理解できているのだろう。「愛しているわけでもない男」と目の前で言われ、その部分を彼女に否定されなかったにも関わらず、SAIは依然恍惚の表情を浮かべてナマエに擦り寄っている。
このままでは、ナマエが衆愚の集うスーパーマーケットのタイムセール品のような、実に下らない理由でSAIのものになってしまう。どうにかして、彼女を思いとどまらせなければ。
「はっきり言うが、1人産むだけで死ぬかもしれないんだ。君の人生がかかっていると言ってもいい。もっと慎重に選択するべきではないかな?」
努めて平静を保って言った僕の言葉に、ナマエではなくSAIの方が狼狽えはじめた。
顔を酷く青褪めさせたSAIが、「違うっ、違うからっ!」と唱えながらナマエの腕に強くしがみつく。
ナマエはSAIに構わず僕を見つめたまま、不思議そうに首を傾げた。
「私の人生?そんなの別にどうでもいいじゃないですか」
いつもと変わらない彼女の声。普段浮かべているのと同じ薄い微笑み。
記憶と寸分違わない彼女と話をしているはずなのに、悪夢に呑まれたような気分になっていく。
「——何を、言っているんだい?」
「ドクターこそ。今日は具合でも悪いんですか?」
クマができてますね、ちゃんと休んでくださいと心配そうに眉を下げて続ける彼女に、頼むからこれは悪夢だと言ってくれと懇願しそうになる。
——ナマエは、本当に自分の人生なんかどうでもいいと思っているのだ。
「私のことはどうでもいいから、七海の血だけは多く残さないと。復活した時に何も残っていなかったら、お父様がかわいそうでしょう?」
家に呪われている。
SAIが言っていたのはこういうことだったのかと、僕はナマエの無垢な瞳を見ながら静かに絶望した。