その日、稀代の天才科学者ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールドは世界が七色に輝いて見えていた。
「嬉しいです。ドクターとまたこうしてランチができるなんて」
「ああ、僕もだよ。食事は必要な栄養価さえ摂取できればいいと考えていた時期もあったがね。NASAでの君とのランチで僕の認識は変わったよ」
カフェテラスに差し込む陽の光を浴びて輝くようなナマエの姿を前に、眩しさに目を細める。
ナマエを秘書に迎えたことで、こうして彼女と再びランチを共にすることができるようになった。しかもNASAにいた頃は週に一度だったのが、よほど都合の合わない事情が出ない限りほぼ毎日。
おお、これを幸福と言わずして何と言おう。
「んー。ナマエちゃん、久しぶり。今日もカワイイねー」
「おや、戦士様。こんにちは」
僕のささやかにして何にも代え難いエレガントな幸福に、盛大なノイズが紛れこんできた。なれなれしく、手の触れそうな距離でナマエに話しかけている男に、自然と目蓋の筋肉へ力が籠っていく。
確かモズといったか、この男。石化を逃れた宇宙飛行士たちの子孫の1人。嘗て僕の国で銃を恐れず軍人たちを圧倒していった、才と実力ある島戦士。
——そして、無類の女性好き。復活したアメリカ人の女性50人以上と異性間交友を繰り広げたらしいという噂は、そういった話題にまるで興味のない僕のもとにすら入ってきている。
大変危険だ。ただでさえナマエは、SAIという度を超えたストーカーとひとつ屋根の下で暮らしているくらい、男性への警戒心が薄いのに。
ああ、やはり一刻も早く、僕がアメリカの城へ連れ帰り、ナマエを安全に管理しなければ。
静かに決意を固めていると、モズの視線が一瞬こちらを向いた。
自信に満ちた瞳に、吊り上がっていく口角。ああ、挑発されている。この男も、ナマエを狙って——。
「ねえ。もらったリボンつけてみたんだけどさあ、これで合ってる?」
もらったリボン!?
モズがナマエへ放った聞き捨てならない言葉に目を丸める。
いつの間にか名を呼ばれ、話しかけられる程度の面識ができていることにも驚きなのに、もう物を贈る程の仲になっているのか。
いや、先ほどのモズの挑発的な目。「もらった」などと言っているが、事実無根の虚言である可能性も——。
「ええ、中世の騎士様みたいで素敵ですよ」
事実無根ではないらしい。もらったというモズの言葉を否定しないということは、彼の今つけているサテンリボンはナマエの手から渡ったもので間違いないのだろう。
しかし、いつ。
秘書として僕の目の届く範囲にいるナマエがこの男や有象無象の衆愚と関わる隙などなかったはずだ。通勤だって、行きも帰りもSAIが必ず迎えに来る。彼は気弱そうに見えて、ナマエの独占に関しては断固として譲らない。機械生物にすぎないホワイマンとの接触時すらあれだけ騒いだのだ。歩く猥褻物のようなこの男がナマエに近づこうとしたなら、ホワイマンの時など比にならない大騒ぎとなるだろう。
にも関わらず、SAIがモズを警戒して騒いだことなど一度もない。
一体いつ、モズと親交を持ったんだ。
「驚いたな、ナマエ。いつの間に彼と?」
努めて平静を装いながら尋ねると、ナマエはモズと無言で目配せし合うと曖昧に笑った。
まるで、2人の間に特別な秘密があるかのように。
「少し⋯⋯散歩をしていたら、偶然」
「少々不用意じゃないかな?自分の体質のことを忘れたのかい?」
意地の悪い言い方になってしまった。人を惹きつけすぎる彼女の才はたちの悪い病のようなもので、彼女自身がどうにかできるものではないのに。
そうは思ったが言葉を止められず、訂正の類をしようとも思えなかった。
「そうですね。⋯⋯ごめんなさい、ドクター」
申し訳なさそうにナマエが瞳を伏せて、頬に睫毛の影が落ちる。そんな顔をさせたい訳ではないのだと苦い後悔に襲われたが、それ以上に昏い満足が胸を満たした。
僕の預かり知らないところで男と会っていたことをナマエが僕に詫びている。それはまるで、僕が彼女の支配権を持っているようで、胸が、いや、足の指先から頭の天辺に至るまでのすべてがゾクゾクと快楽に打ち震えた。
「おお、いいんだよ。おかしな虫が寄ってくるのは君のせいではないのだから。僕も少し厳しい言い方をしてしまったね」
「えー何?ナマエちゃん、嫁でもないのにそこまで指図されんの?」
ナマエが手に入ったような錯覚に満足感を覚えながら彼女へ話しかけていると、モズがズケズケと横槍を挟んできた。
ハッと鼻を鳴らし、嘲笑にも似た表情を浮かべてこちらを一瞥したモズが、ティーカップの側へ置かれていたナマエの手へ上から覆うように遠慮なく触れる。
「んー、ナマエちゃんさー、俺にしてみたらいいんじゃないかなあ。俺は束縛とかしないよ?」
「どうでしょうねえ⋯⋯」
肯定も否定もしない。
彼女のような階級の人間がよくやる返答の仕方だ。明確な結論を避けたいときや、どちらに転がっても構わない議論のとき、資本家たちはこうして言葉を濁す。
つまりその程度。どこで接点ができたのかは依然不明だが、特別な仲ではないのだろう。僕と違って。
「君、確かモズ君といったかな。ナマエは優しい淑女だから君を露骨に邪険にしないだけだ。君が複数人の女性と不純異性交遊に耽るのは自由だが、僕の大切な専属秘書に迷惑をかけるのはやめてほしいね」
「んー、優しい淑女ねえ。俺には気まぐれでイタズラ好きの子猫ちゃんに見えるけどなあ。あ、ただの仕事先のオジサンには分かんないか」
「⋯⋯君とは話し合いが必要なようだ」
「んー、俺は手っ取り早く力で解決の方がいいなあ」
「おや、曲がりなりにも警察官の言葉とは思えないな」
やれやれと両手を上げて軽く首を振りながら言うと、モズがピキリと額に青筋を立てた。
「俺さァ、ガキの頃元帥やってた親父のこと半殺しにしちゃったんだよねェ」
「おや、女性への迷惑行為の次は過去の暴力行為の自慢と脅迫かい?随分と素晴らしい警察官だね」
「んー、ただの世間話ってヤツだよ。オジサンの顔見てたらつい親父を思い出しちゃってさあ。あんまビビんないで欲しいなあ、オ・ジ・サン」
この男、さっきから僕をおじさん、おじさんと⋯⋯!
腕力だけの男かと思いきや、頭は狡猾に働くようだ。若さというアドバンテージで僕を蹴落とすつもりらしい。
若さと腕力で気に入った異性にセックスアピールとは、おお、原始レベルの文明で暮らしていた部族がいかにも考えそうなことだ。
財閥という文明社会の上流階級に暮らしていたナマエがこのような男に靡くはずもないが、危険分子はなるべく排除しておくに越したことはないだろう。
やはりナマエを速やかにアメリカの城へ――。
「戦士様。私の前でドクター・ゼノをそのように呼ぶのは控えていただけませんか?」
未だに上から握り込まれている右手の手首を軽く上げ、リードを引かれた飼い犬のような表情になったモズを見上げながら、ナマエが静かに言った。
「フーン、庇ってあげるんだ?可愛い上に優しいなんて、ますますお近づきになりたいなあ」
「優しくなんかありませんよ。ただ、同世代の私も自動的に被弾するのでやめてほしいという話です」
「同世代⋯⋯?」
同世代。淡々と放たれたその言葉に、モズが戸惑ったように目を丸めた。モズの視線を受けて、何をそんなに不思議がることがあるのかと言わんばかりにナマエがコテリと小首を傾げた。
「ドクターとSAIは同い年。私はその1つ違いですから、ドクターがおじさんなら私もおばさんです」
「いや、ナマエちゃんはオバサンじゃないでしょ。カワイイし」
「おや、戦士様はお優しい。でも私、もうすぐ25歳なんですよ」
25歳。この数字をナマエが口にすると嫌な予感がするようになってしまった。
⋯⋯話題を変えよう。せっかくナマエとこうしてランチができるまでになったのに、またリミットとやらの話が出てきてSAIと結婚するなどと言われてはたまらない。
「ナマエ、そろそろラボに――」
「25?んー、ナマエちゃんカワイイのに、その歳で独り身?俺なら放っとかないのになあ」
「まあ、本当に?」
「んー、ホントだよ。近くにお茶の美味しい店見っけたからさあ、今度一緒に行こうよ。日曜ヒマならどう?」
「それは、デートのお誘いと受けとめても?」
「まあね。どう?紳士のマナーってやつを覚えてきたつもりなんだけど?」
よくない流れだ、とても。
紳士のマナーを覚えてきたと嘯くモズの声は甘く、島戦士の化粧が施されたエキゾチックな目元は情熱的に細められている。
若くて逞しく、自信に溢れた男にこのように言い寄られて魅力的に思わない女性がいるだろうか。
ああ、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息が苦しい。
誰か、この際神にだっていくらでも祈るから、この男をナマエから遠ざけて――。
「モズくん。どこに行ったかと思えばまたナンパですか。業務中でしょう?ちゃんとしてください」
「ゲッ、氷月⋯⋯」
「聞こえてますよ。ゲッとは何ですか。失礼ですね」
音もなく暗殺者のように現れた氷月が、日々の鍛錬を感じさせる緻密な筋肉のついた腕を組んでモズへ小言を言う。
どうやら助かったようだ。今のうちにナマエを連れてラボに帰――。
「氷月さん?もしかして尾張貫流槍術道場の、暁氷月さんですか?」
「ええ、そうですが貴女は――、⋯⋯ナマエ、さん?」
涼やかな瞳を見開いて、彼がナマエを凝視する。見つめられているナマエの方は、頬に手を当てて「まあ⋯⋯」と呟いた。
「あんなに小さくてお可愛らしかったのに、立派になりましたねえ」
「いつの話をしてるんですか。あの頃は貴女だって小さい子供でしたよ」
「ふふ。生真面目なところは相変わらずそうですね」
「え⋯⋯何?氷月ってナマエちゃんと知り合い?」
「ええ、まあ」
モズの問いになんでもないことのように氷月がサラリと答える。
彼の余計なことを言わない武人らしいストイックさは好ましい。
だが、今聞いているのはナマエに関する情報だ。もっと詳細を、具体的に知りたい。どういった知り合いで、どの程度の親密さか。彼は今後僕とナマエの仲の障害となり得るか——。
「小さい頃に武術をいくつか習いまして、氷月さんのご実家の道場にお邪魔していた時期があるんです」
「意外だな。君が武術を?」
「ええ。ほとんど身につかないままやめてしまったので、経験者ぶると怒られてしまいそうですけど⋯⋯」
「怒りませんよ。⋯⋯筋がいいのに勿体無いとは思ってましたけどね」
腕をかたく組み、ため息を零す氷月の眉間に向けて、ナマエのたおやかな指先が伸ばされる。
「ほら、怒ってる。かわいいお顔が台無しですよ」
「怒ってません。眉間のこれは元からです」
「元から?小さい頃はなかったでしょう?」
「⋯⋯まったく。口では敵いそうにありませんね」
眉間の皺から指を離したナマエが、クスクスと少女のように笑う。
⋯⋯羨ましい。小さい頃のナマエを知っていて、この距離感で話ができているなんて。
ナマエは氷月の顔を可愛いなどと評したが、熟練の戦士然とした今の彼の顔が世間一般で可愛いと評価されるかは⋯⋯大いに議論の余地がある。僕の方が筋肉量が少なくてか弱いのだから、彼が可愛く見えるなら僕だって可愛いに分類されるのではないだろうか。
「んふふ。暁家の坊っちゃんに勝てたなら、悪い気はしませんね」
「貴女意外と負けず嫌いですよね」
「⋯⋯最初から負けたい人なんていないでしょう?」
朗らかだった声のトーンが僅かに落ちる。僕から見てもナマエは勝ち負けに拘るタイプではないように思うのだが、何か気にしていることでもあるのだろうか。
訝しく思ったのを察したのか、ナマエが氷月から僕へと目を向けて、気を取り直すようにニコリと笑みを形作った。
「ところで、新しい道場はどちらに?今度改めて、こちらからご挨拶に行きますね」
今度は氷月が苦い顔をする番だった。
無理もない。彼は今、治安向上のために警察へ武術の指南をしていると聞く。⋯⋯千空たちへの罪滅ぼしとして。
警察組織へほとんどボランティアとして滅私奉公している今の彼に、自分の道場を構えて弟子を取る生活はできないだろう。
「⋯⋯道場はありません。私は、許されないことをしたので」
「んー、氷月?その話ならまた今度でいーじゃん?どっかのおじさんなんか、俺ら全員をブッ殺したりしたワケだしさあー」
狡猾な男だ。師である氷月のメンツをフォローしながら、僕のネガティブキャンペーンも忘れない。挑発的な彼からの視線を睨み返していると、ナマエが「それなら」と穏やかに切り出した。
「氷月さん、今夜うちに遊びに来ませんか?」
「⋯⋯はい?」
氷月の気の抜けた返事とともに、モズが目の色を変えた。
⋯⋯僕も、他の男を家に誘うのを目の前で見せられては心穏やかではいられない。
だが、僕らの動揺を置いてナマエは椅子に座り直してアジア人らしい華奢な足を組み、困惑に眉間の皺を深めている氷月を見上げた。
いつになく深い、過剰なまでに輝く微笑みで。
「まあ!快諾していただけて嬉しい!19時頃で大丈夫ですか?」
「いえ、あのですね⋯⋯」
「大丈夫そうですね。氷月さんの分も用意しておきますから、お腹は空かせてきてください」
「ちょっと待ってくださいよ、ナマエさん⋯⋯」
「まさか尾張貫流槍術の後継ともあろう方が、約束破りなんて不義理なこと、しませんよね?」
独特な圧を放っているナマエの微笑みに氷月はすっかりたじろいで、もうどうにもならないとばかりに手で顔を覆った。
「貴女、随分とたちが悪くなりましたね⋯⋯」
「氷月さんは相変わらずみたい」
ナマエがティーカップを持って満足そうに微笑む。まるで、美しい絵の商談を成功させた画商の浮かべるような笑みだ。
「ん、んー?ナマエちゃん、家に男を呼ぶ意味分かってる?それも夜に食事なんてさあ、もうヤることなんて決まってるよねぇ」
何を言い出すんだこの男は。
僕が汚物を見る目を向けるのと同時に、モズの額へ布で覆われた槍の先が向けられた。
「モズくん?訓練がしたいなら表に出ましょうか」
「んー、いいねえ。俺が勝ったら夜の楽しいコトは譲ってもらおうかなァ」
「いいですよ。遊び過ぎで脳が溶けかけてるみたいですから、鍛え直してあげます」
死人の出そうな闘気を帯びて、2人が店を後にする。
2人へ物珍しそうな視線を送る者、観戦しようと2人の後に続くようにして店を出て行った者と、ただ事ではない空気が店内に流れていたが、ナマエはティーカップを片手にのんびりと呟いた。
「2人とも⋯⋯、ランチは良かったんでしょうか?」
この空気で彼らのランチの心配、だと⋯⋯?
2人の出て行った方を見ながら小首を傾げている彼女に言葉を失う。
「2人だって子どもじゃないんだ、自分たちで何とかするさ。僕たちもそろそろ行こうか」
「そうですね」
椅子から立ち上がった彼女へ肘を差し出し、しまったと後悔した。
焦りがあった。若さでセックスアピールするモズや、昔なじみの距離の近さで家へと誘われた氷月に。
だからつい、夜会でもないのにこんなエスコートの真似事をしてしまった。
なんとかさり気なくこの腕をなかったことにはできないかと考えていると、腕の内側にふわりと蝶が留まるように彼女の手が触れた。
「ドクターって、本当に紳士ですよね」
「おお、どうだろうね。少なくともランチに割り行って女性を口説くようなことはしないかな」
おじさん、おじさんと繰り返されたのは癪だったので、僕もきっちりと彼のネガティブキャンペーンをしておいた。