2週間後の金曜日、パーティーの日はあっという間に来てしまった。
毛先を緩く巻いたハーフアップに、プチフォーマルな膝丈の黒いドレス。職場へ着てくるには上等なそれらの装いに違和感がないのは、彼女が普段からクラシカルな服を着こなし、振る舞いの1つ1つに気品が備わっているからだろう。
今だって、普段と同じように紅茶を飲んでいるだけで一枚の絵画のようだ。
シンプルな装いだからこそ、アクセサリーが輝いて見える。そう、左手薬指の銀の指輪が——。
⋯⋯⋯⋯左手の、薬指?
「ナマエ、君、既婚者だったのかい?」
「いいえ?未婚ですよ」
「なら薬指のそれは?」
「ああ、変な男性避けのダミーです。国際線のキャビンアテンダントの方がフライト先で求婚されないようによくやる——」
アールグレイの紅茶を飲みながらリングのことを話していたナマエが、僕の左手の方へ目をやりながら黙り込んだ。
「ドクター・ゼノ。つっ込んだことを伺って恐縮なんですけど⋯⋯」
アールグレイの紅茶をテーブルへ置き、声を落としたナマエが言いにくそうに一呼吸置いた。こういった時、彼女の表情の出にくさは心臓に悪い。良い話が出るか、悪い話が飛び出すか、彼女が喋るまでまるで予測がつかないのだ。
「⋯⋯ドクター、今お付き合いをされている方がいたりとか、そういった方を募集中だったりとか⋯⋯します?」
コーヒーを口に含んでいなかったことを幸いに思う。
恋人の有無。他でもないナマエから、恋人の有無を聞かれている。
これは喜んでもいいのだろうか?
しかし彼女の質問の意図が全く分からない。表情から読めないのだから、質問に至るまでの過程から推測して答えるしかない。
彼女が黙り込んだのは僕の左手薬指を見てからで、その時の話題は既婚の有無だった。
⋯⋯⋯⋯。
やはり分からない。
しかしここで敢えて嘘をつくメリットはないはずだ。
それならば——。
「いないよ。僕の話を理解できて、飽きずに聞いてくれる女性がいれば嬉しいんだが」
「他は?」
「⋯⋯ウン?」
「もっとこう、容姿とか雰囲気とか、あるでしょう?好みのタイプが」
君のような女性が好みだ。
などとストレートには言えないので、少々食い気味の彼女の問いに答えあぐねてしまう。
「君は?」
「はい?」
「尋ねるからには、君にもあるんだろう?好みのタイプというものが」
コーヒーカップを掲げながら少し気取って言ってみたが、僕の心臓は不整脈でも起こしたみたいにうるさく動いている。年寄りの研究員とも朗らかに話をする彼女の、異性のタイプなんて全く予想もつかない。もしも「アメフトの得意な方が好みです」なんて言われたら僕は午後からどう過ごせばいいのだろう。
しかし聞きたい。彼女の異性のタイプ。知りたいと思うこの気持ちを止められない。
自覚はある。ナマエに関して、近頃の僕は日を追うごとに貪欲になっている。
もっと観察したい。もっと知りたい。
例えば、アールグレイの紅茶を飲んでいる時だけは表情が微妙に豊かになったり、本音を漏らしやすくなったりするとか。
そういった僕しか知らないナマエをもっと増やして、ナマエのことを僕だけが管理できたら何れ程幸福だろう。
「ほら、教えてごらん。まさか人に聞いておいて自分は答えないなんてこと、君のようなレディはしないだろう?」
「仰る通りですね。聞くからには私もお答えしなければ。私の好みは⋯⋯」
彼女の視線が軽く左上の方を向いた。過去に記憶したイメージを呼び起こす眼球動作だ。今彼女の中で、彼女の過去記憶に基づいて好みの像が作られているのだと思うと少し興奮して、ゴクリと生唾を飲む音を鳴らすなんて獣じみたことをしてしまわぬよう、僕は努めてさり気ない風にコーヒーを口にして彼女の言葉を待った。
「思いつきません⋯⋯」
君、それはないだろう。
そうは言えなかったのは、向かいに座っている彼女自身、思いもよらなかったという顔をしているからだ。
一瞬、彼女が母親を探す迷子のように眉を下げたような気がした。しかしそれはまるで瞬きする前の幻覚だったみたいに、気がつけば彼女はいつもと変わらない微笑みを浮かべていた。
「まあ、今私のことはいいじゃないですか。問題はドクターです」
「問題?」
「ええ。このままパーティーに向かうのはとてもまずいです」
面倒事があっても大した問題ではないかのような微笑みを浮かべているナマエが、声を落としたまま神妙な顔で言う。
一体何が不味いというのか。ドレスコードから外れてはいないのだから、何も問題はないはずだ。
「何が問題なんだい?」
「お気づきにならないんですか?⋯⋯ドクター、先日広報部からの仕事で雑誌のインタビューを受けましたよね?」
「それが何か?」
「考えてもみてください、ドクター。雑誌で『NASAの叡智』と華々しく紹介されたばかりの若い天才科学者が、一人で指輪も着けずにパーティー会場を歩いていたらどうなると思いますか?」
「別にどうもしないよ」
ただ衆愚の群れに紛れ込むだけだ。煩わしいことこの上ないが、何か事件が起きるわけではない。
⋯⋯と僕は思っているが、僕の返事を聞いたナマエは6歳の僕が物理学の計算式を家の壁いっぱいに書いたときの両親のように、驚きの隠せない顔をしていた。
「ドクター・ゼノ、いいですか?パーティー会場の人たちは貴方にとってハイエナです。そう思って過ごしてください」
「言われなくてもそのつもりだよ」
ハイエナなどという獰猛な肉食獣に例えるかはさておき、会場にいるほとんどの人間がこちらの言語が通じない衆愚であろうことは確かだ。
そう思って答えた途端、ナマエはするりと席を立って、嘗てなく俊敏に僕の隣へとやってきた。
「ドクター・ゼノ、絶対、絶っ対、会場で私の側から離れないでくださいね」
「おお、まるでプリンセス扱いだね。ではエスコートはプリンス・ナマエにお願いしようかな」
言ってから、今の例えは少し気持ち悪かっただろうかと後悔した。どうも僕は、ナマエといると調子が狂う。
「おや。プリンス役の拝命なんて高校の学園祭以来です。手の甲に口づけでもいたしましょうか?プリンセス」
映画に出てくる騎士のような姿勢の良さで立っているナマエが、悠然とした微笑みを湛えて僕の左手を掬う。
本当に、どうして、手を取るなどというほんの少しの動作でナマエは僕の心を奪っていくのだろう。
物語の王子が姫に対してそうするような手の取り方に、彼女の素手の滑らかで柔らかな感触――。
困ったことだ。心拍数も、体温も、コントロールできないまま勝手に上昇していく。
手を振り払うこともできずに僕が座ったまま固まっていると、手の甲に口付けが降りてくることはなく、彼女の小さな手が離れていった。もし手を取られたまま、彼女の唇が僕の手の甲へ落とされたなら、今頃僕はこうやって思考を働かせることができただろうかなどと考えながらナマエの小さな唇を凝視していると、再び彼女の手に左手を取られた。
ナマエの右手には、たったさっきまで彼女が左手の薬指に嵌めていたはずのシルバーリングが握られている。
そして彼女はそれを僕の左手の薬指に——。
「残念。当たり前ですけど、私のサイズがドクター・ゼノの指に嵌まるはずなかったですね」
これがあるだけでかなり楽なんですけど、と彼女が小さなため息混じりに呟く。他にも何か言っていたが、その間の僕は視線も思考も、彼女が指の中で弄ぶように転がしているシルバーリングに釘付けだった。
パーティー会場に着くと、他の部の職員たちと固まっていたナマエが僕の元へと一歩進み出た。
「こんばんは、ドクター」
「やあナマエ。夜の君もエレガントだ」
ドレスに合わせて化粧を直したのだろう。主張しすぎない程度の真紅を唇に乗せたナマエは、昼食の時とは打って変わって夜の空気を纏った貴婦人の姿になっていた。
彼女が日本の格式ある家の生まれであるということは風の噂や本人との会話の中で何となく知ってはいたが、いっそ恐ろしいほどに似合っているドレス姿をこうして目にすると、噂が真実なのだと嫌でも理解できてしまう。
「ドクター、お酒は飲めますか?」
「うん。飲めるよ」
「ではこれを」
給仕から流れるようにグラスを2つ受け取った彼女は、そのうち一つを僕へ持たせた。
「ドクター、あちらにいるのは物理学の先生ではありませんか?ご挨拶に行きましょうよ。研究の役に立つかもしれません」
「え?うん」
あちら、と言って彼女が人混みへ手を向けるが、僕には衆愚どもの見分けはつかない。他の職員たちもそうなのだろう。「では自分も」などと着いて来る者もなく、僕はナマエの隣をついて行った。
「ナマエ?物理学の先生というのは⋯⋯」
「あれはウソです」
「嘘?」
「⋯⋯ここまで離れれば大丈夫でしょうか。皆のいた方を見てみてください」
彼女に言われるまま、後ろを振り返って数メートル先を見る。僕らと同じようにシャンパングラスを手にした彼らは、早速外部の人間と交流を始めたようだった。
事務系の部署の人間は僕ら研究員から見ると華美なファッションを好む者が多いように思っていたが、こうして遠目から見るとどこか野暮ったい。彼らと話している人間たちが華やかすぎるのだろうか。
「広告関連の企業の人たちです。雑誌に載ったばかりのドクターがあそこにいたらマスコットキャラ扱いは確実でしょう」
彼女の言葉に顔を顰める。
先日の雑誌取材、あれは最悪な時間だった。雑誌のインタビュアーは何度も同じことを聞いて来る割に僕が誤りを訂正しても理解できずにいたから話が全く進まず、「これを持った方が科学者っぽいから」と研究では全く使わない三角フラスコを持った不自然な写真を撮られ、全くの無駄と言っていい作業だらけの実に下らない時間だった。
あれと同じ実りのない時間を過ごすなんて冗談ではない。
「ということでドクター・ゼノ、あの輪には戻らず古い知人を見つけたという体にでもして帰りましょう」
「良い案だと思うが、開始早々居なくなって平気かい?」
「平気です。主催にとって、参加人数2000人の大きなパーティーを開いたという事実が大事なので。受付が終わった瞬間から私たちは帰ってOKです」
決断力がある、と言えば良いのだろうか。
1秒でも早く帰りたい僕ですら慎重に退散すべきかと悩んだのに、ナマエは一口も口をつけていないグラスを給仕にさらりと押し付けて、既に帰る姿勢に入っている。
こんな煩わしい場所から今すぐにでも連れ出してくれると、彼女はそう言っているのに、エスコートで彼女へ肘を差し出すことすらできないままこの夜が終わるのは惜しい。
僕の肘にかかることのない小鹿のような腕を眺めていると、少し先を歩いていた彼女が僕の視線に気づいたかのように振り返った。
「ドクター・ゼノ。2人で出るとゴシップの種なので、入り口近くに着いたら先に出てください」
「君は?」
「10分ほど時間を開けて出ます。私を待たず先に帰っていただいて構いませんよ」
「いや、待つよ。ロビーで待ってる」
ずっと、と女々しく続けそうになったのを慌てて飲み込んで、「お先に」の意の軽い会釈を彼女にしてから出口へと向かう。
ドアをくぐる瞬間、ナマエは今どうしているか、誰かに絡まれてはいないかと急に不安になって、後ろを振り向きたくなった。
不意に、似たような話があったと子どもの頃に読んだ神話の一つを思い出す。妻を取り戻すために冥界へ向かったオルフェウスが何故地上に戻る直前で振り返ってしまったのか、彼の気持ちがほんの少し分かった気がした。
会場を出て10分を少し過ぎた頃、僕はロビーラウンジでコーヒーを飲んでいた。この時間にもなると、スカイラウンジで飲む人間の方が多いのだろう。ひしめく衆愚とは無縁の閑散としたロビーラウンジで、「ドクター・ゼノ!」と僕を呼ぶ彼女の声を待ちながら飲むコーヒーはほんのりと甘味があって美味しい。
そろそろかと腕時計の分針が進んだのを見ながら顔を上げると、運命のようなタイミングで彼女が現れた。
「ミスター・ヒューストン、お待たせしました」
みすたー・ひゅーすとん?
確かに僕はゼノ・ヒューストン・ウィングフィールド⋯⋯、ミスター・ヒューストンと、呼べなくもない名前である。しかしなんでナマエはミドルネームなんかで僕を呼ぶのか。そして腕に引っ付けている「それ」は何なのか。
「その⋯⋯彼女は?」
「ミスター・ヒューストン、ロシア語喋れましたよね?あとで事情を話すので、今だけ私を専属通訳ということにさせてください!」
突然ロシア語で話しかけてきたナマエに潤んだ瞳で見上げられて、反射的に頷いた。
僕が頷いたのを見るや、ナマエは腕にしなだれかかっていた女に日本語で何かを話かけ始めた。何やら宥めるような口調であり、立て籠もり犯を刺激しないよう語りかけるドキュメンタリーの交渉人のような雰囲気になっている。
が、女に離れる気配はなく、むしろより一層離れがたいとばかりにナマエの名を呼び、ひしっと胸を押しつけるようにして彼女に抱きついた。
どうにも離れる気配がないことを察したらしいナマエは、2、3言何かを彼女の耳元で囁いて、抱き着いている女がコクリと小さく頷いたのを確認すると、女の顎を小さくスラリとした指先で壊れ物のように大事に掬って――。
――キスをした。
一瞬、ほんの一瞬の出来事だった。舌が絡んで唾液を交換するようなそれではなく、軽いものではあったけれど、小さなリップノイズが聞こえてくるような、「ちゃんとした」キスだった。
魔に魅入られたように力の抜けた女の腕からするりと抜け出して姿勢良く立ったナマエは、女の唇に自分の人差し指を軽く押し当てて何かを伝えると、女に一礼してこちらに歩み寄ってきた。
「お待たせしました、ミスター・ヒューストン。さあ、行きましょう」
初めて会った日のような隙のない微笑みを浮かべている彼女に促されるまま、ホテルの出口を抜けてタクシーへと乗り込んだ。
「びっくりした⋯⋯」
それは僕のセリフだよと言おうとして、横目で彼女の表情を盗み見ながら止めた。
酒に一口も手をつけていなかったのに顔が真っ赤だ。そしてそうなるくらい余裕がないから、流れで隣に乗ることになった僕の袖を無意識に掴んでいるということに彼女自身気付いていない。せっかく降って湧いたこの役得を自分で捨てるなんて、そんなもったいないことするものか。
車の揺れで誤魔化しつつ、さり気なく彼女へ身を寄せながら、さっきの状況についてどう聞き出すべきかと思案する。
「⋯⋯何故ロシア語を?」
「あの子も英語は話せるし、フランス語もたぶんできるから⋯⋯。ドクター・ゼノが喋れて、相手から見ても違和感の無さそうな言語となると、とりあえずロシア語かな、と⋯⋯」
「おや。僕はミスター・ヒューストンではなくなったのかい?」
「すみませんでした。ミドルネームなら万が一後で調べられても出てきにくいかと」
⋯⋯全く話が見えない。何故ナマエは浮気を隠す亭主のような不審行動に出ているのか。何がどう繋がって、あの――キス、に繋がるのか。
「プリンス役の拝命が学園祭以来ってお昼に話したの、覚えてますか?」
「え?ああ」
自分をプリンセスに例えてしまったことが恥ずかしいとか、自分に対してプリンスのように振る舞うナマエが凛々しくエレガントだとか、そんなことばかり考えていたが、よく考えればハイスクールの学園祭でプリンス役とはどういうことだろう。
「学園祭のとき、クラスの出し物で演劇をやったんです。演目が眠れる森の美女だったんですが、役をくじで決めたら私は王子役になりました」
日本とは、随分自由な国のようである。僕は飛び級でハイスクールを経験せずに大学生になったが、仮にカリキュラム通りの人生を送ったとしてもクラスの人間と演劇をしたり、その中で異性装をしたりするような学園生活は送っていなかっただろう。
千空のようにロケット作りに挑戦する小学生が出てくるのは、日本という国にこういったある種の鷹揚さがあるからだろうか。
⋯⋯ところで、なぜ昼の話を彼女は突然始めたのだろう。彼女のエレガントな王子姿にかなり興味はあるが、今問題にしたいのは先程のキスである。
しかし「キスは何故したんだ!?」などと無粋な質問をするには彼女の語り口調はあまりに心地良く、僕はただ彼女の昔話に耳を傾けた。
「それで演劇は成功したんですが、成功しすぎたと言いますか⋯⋯。どうも衣装や照明が良かったことで演者も実物以上によく見えてしまったみたいで⋯⋯、一部に熱狂的なファンが生まれてしまったんです」
「⋯⋯おお、やっと見えてきた。先程の彼女はその一人、ということか」
「さすがドクター・ゼノ、今日も話が早い」
いつもの調子が戻ってきたのか、先程の少女のような赤面が嘘だったかのように、ナマエは普段と同じ落ち着いた声色でそう言った。
往来でのキスに至るかはさて置き、プリンス・ナマエに熱狂した当時の学生たちの気持ちは理解できる気がした。
理想と現実の齟齬や、想像さえしなかった大人の汚い面を見ることになる多感なティーンエイジャーが、粗野で醜い現実をまるで感じさせない王子の姿を舞台上に見たら、熱狂に身を焦がすのはある種自然ではないか。
ティーンを過ぎた僕の目にすら、初めて目にした炎色反応のように鮮やかに映るのだから。
⋯⋯しかし、やはり分からない。
「その⋯⋯最後のあれは⋯⋯必要だったかい?」
ナマエは、口八丁で数十億ドルのロケットエンジン改良予算を取れる女だ。離れたがらないファンの一人や二人、口だけで何とでも言いくるめられただろう。なのにどうして、キスなんかしたのか。
他の衆愚にもしつこくされたらキスをくれてやるのか?バーゲンセールみたいに?
もしそうなら、ナマエは今すぐ僕の管理下に入るべきだ。ナマエの唇はタダ同然で衆愚に奪われていいような、そんな陳腐な代物ではない。彼女自身その価値を理解せず、衆愚どもの食い物にされるなんて耐えられない。そうなるくらいなら、僕が――。
「キス1つで貞操の危機を穏便に逃れられるわけですから、まあ、やりますよね」
貞操の危機。今脳内にあったあらゆる思考がパワーワードによって宇宙の果てへと消し飛んで行く。
貞操。貞操⋯⋯?
確かにあの女は腕にこれでもかとしなだれかかり、豊かなバストをナマエの胸に押しつけたりと、色仕掛けをする女そのものではあったが⋯⋯。
「女性だろう?君と同じ」
「だから厄介なんじゃないですか」
「ウン⋯⋯?」
僕は、ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールドは、自分の頭脳が周囲より秀でていると自負している。
けれど、分からない。彼女が常識として省略する部分は、時折僕の常識とは全くかけ離れている。同性の色仕掛けの何が厄介だというのか。
「男性からの『一緒に部屋で飲みましょう』はセクハラで一蹴できますけど、同性からの誘いだと露骨に避けにくいでしょう?」
「何故?いいじゃないか、避ければ」
そういった態度だから衆愚が期待するのだ。程度の低い頭で勘違いされないよう、ナマエは衆愚などと会話せずに僕とこそコミュニケーションを深めるべきである。
「⋯⋯ドクター・ゼノ、そう感じて、実際にそれが出来るのは貴方が飛び抜けて優秀だからですよ。優れた何かを持たない人間はそうもいかないのです」
「君は優れた人だと思うよ」
「⋯⋯本当に、ドクターはお優しい」
僕は世辞で言っているわけではないのに。どうして彼女は衆愚とは違うのに、肝心なところばかり気づいてくれないのだろう。
「そうとも。僕のエスコートそっちのけで他の女性とキスをしている薄情なプリンスに、ぜひ見習ってほしいね」
プイッと窓の方へ視線を向けながらそんな皮肉を漏らした。僕ばかりが彼女のことを考えているのも、彼女が衆愚との交流なんかを気にかけているのも面白くない。何よりやはり、キスは必要なかっただろう!
爪の先まで整った細い指で顎を掬って、長い睫毛を蝶が花に舞い止まるように伏せて、そして——。
ダメだ夢にまで見そうだ。だってあんなにも美しくエレガントな一瞬だったのだ、夢に出たっておかしくない。
「おや、プリンセス・ゼノ、どうかそう言わず、今からでも挽回のチャンスを与えてはくれませんか?」
「知らないよ。僕には手の甲へのキスすらしなかったじゃないか」
そうとも、僕は怒っている。僕を差し置いて、僕には手の甲にすらキスしなかったくせに、どこぞの衆愚に唇を許したナマエに怒っている。部署同士、職員同士の諍いに挟まれがちで、いつもそれらを上手いこと丸めている彼女は僕のこの怒りもそうして収めるつもりかもしれないが、今、この問題に関してちょっとやそっとで折れてやる気など絶対にない。
車のライトや遠くの高層ビルの灯りが照らす窓の外を眺めながら固く決心していると、ナマエのしっとりと柔らかい手のひらが僕の手を取った。
僕はティーンではないのだ。ちょっと手を握られただけで動揺することなどないし、これくらいで絆されたりもしない。そう思って相変わらず窓の外を眺めていると、手の甲に柔らかい感触が触れて、ちゅ、と微かなリップノイズが耳を打った。
「〜〜ッ!?」
「これで許していただけませんか?プリンセス」
思わず振り返って彼女の顔を見る。すぐ隣に座っている彼女の顔はいつもよりずっと近くにあって、彼女の瞳に映る自分の顔を視認できそうなほどの距離で、彼女の澄んだ瞳が僕を見つめていた。
「⋯⋯別れ際、あの女性に何と言っていたんだい?」
キスをしたあと、ナマエは彼女に何かを告げていた。キスだけじゃない。あのナマエの言葉こそ、あの女にとって特別だったのだ。だからあれだけナマエにしがみついていたのに大人しくなった。
知りたい。ナマエが一体何と言ったのか。
——知りたい。その特別は、あの見知らぬ女だけではなく、自分にも与えられ得るものなのか。
依然僕の手に触れていたナマエはその手を己の眼前まで運んで、誓うように告げた。
「どうかこの口付けと共に、私のことは思い出にしてください。そうすれば私は、貴女の思い出の中で生き続ける——」
言い終わると、ナマエはダンスが終わった後のように艶やかに微笑んで、掴んでいた僕の手を蝶を逃すようにそっと離した。
「なんて言いましたけど、さすがにキメすぎたかもしれませんね」
「うん、そうだね。だが、エレガントだ」
ナマエとのキスもその思い出も、あの女の中で永遠に残るだろう。
しかしそれはナマエがハイスクール時代に演じた王子という、彼女のごく一部を切り出して作り上げた一種の虚像に過ぎず、あの女は真のナマエを手にした訳でも、ナマエの真の特別になったわけでもない。
ああ全く、胸の空くような、晴れ晴れとした思いだ。
「薄情などとなじって済まなかった。帰り着くまでのエスコートは任せるよ、僕のプリンス」
「ええ、引き受けたからには最後まで。マイ・プリンセス」
彼女が微かな微笑みを零し、僕らはどちらともなく手を繋いで寄り添った。
この車が家へ帰り着いてしまうまではナマエは僕だけのプリンスであり、理想だけを切り取った虚像ではなく、確かな存在として隣にあるのだ。