その日の夕方、ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールドは陶然とした笑みを浮かべてガラス瓶をチャプリと振った。
まるでハイブランドの香水瓶のような、ガラス面のひとつひとつが優美にカットされ、キラキラと光る可愛らしい小瓶。中身の薄黄色から見るに、中身はおそらく硝酸だ。このストーンワールドでロケットエンジンを作り、打ち上げの管制官までこなした男が今さらウットリと心をときめかせるような代物ではない。なのにこの、鼻歌でも歌い出しそうな機嫌の良さはなんなのかと、千空は科学の師とも呼べるその人を怪訝な目で注視した。
ゼノがおかしくなったのは今日の16時17分。クロム・マグマ・陽の三人がメンタリスト・あさぎりゲンを頼ってやって来たあの時からだ。
「復活者の中にナマエという女はいるか」と陽がゲンへ質問した時、現場へ向かいながら話を聞こうとするゲンに、ゼノは「この場で聞けば自分も力になれるかもしれない」とまで言ってのけたが、この男が科学以外の問題に自ら首を突っ込むなんて異常事態だ。あれはどう考えても情報収集だった。ナマエとかいう女に、何か心当たりがあるのだろう。
⋯⋯いや、心当たりという言葉では言い表せないほどの相当な思い入れか。
「あ゛ー⋯⋯。天才・ゼノ先生が恋愛脳とか、マジでゴメンだぜ」
一番非合理的なトラブルの種、恋愛脳。今進めているプロジェクトを最短で進めるのにはゼノの力が必要不可欠だ。そんな中で恋愛脳なんてめんどくさいものを持たれるのは非常に困る。
まさかそんなこと、この科学の天才に限って無いと信じたい。しかし、プレゼントのように小洒落た瓶へご丁寧に入れられた硝酸や、それを持つゼノの蕩けた笑み自体が既に不気味な異常事態だ。
ただでさえ、振り切ってしまうと科学技術による武力独裁へと突っ走ってしまうような、危うい純粋さのある男だ。恋愛脳を持ち込まれたらどうなるか、想像したくもない。
惚れた腫れたばかりは科学ではどうにもならないから、どうか何も起きてくれるなよ。
願うような気持ちで、千空は薄暮の空にきらりと浮かぶ宵の明星を見上げた。
運と呼ばれる奴を、自分はあまり持っていない。
夕方の願いとは裏腹に目の前で繰り広げられる小競り合いを茫然と眺めながら、千空はつくづく自分が神頼みに向いていないことを自覚した。
「返してよっ!!!ナマエちゃんはっ、ずっと石のままでいたいんだっ!!」
「返す?彼女は君の所有物ではないだろう?」
今は後手に手錠をかけられている天才プログラマーのSAIと、おろしたての白衣を着直して現れた天才科学者のゼノ。
いい歳した大の男2人が、ワンピースを着た石像の女を挟んでバチバチと火花を散らして争っている。
こんなの、100億%めんどくさいことにしかならない。
「それに、石でいたいなんて彼女がいつ言ったんだい?」
「言ってなくてもっ、僕には分かるんだっ!」
SAIの言葉へ「まるで話にならない」とばかりに、ゼノがハッと嘲笑のような音を零して肩をすくめた。そして、白衣の内ポケットからするりとガラスの小瓶を取り出してSAIへと見せる。
「ここにある硝酸を彼女にかけてみようじゃないか。復活液と違って、これは意識を保ち続けている選ばれた人間にしか効果がない。彼女が今も思考を続けているなら、救ってあげるべきだろう?」
「救ってあげるだって?さっきから言ってるじゃないかっ!ナマエちゃんは石のままでいたいんだっ!」
手錠をかけられたSAIがゼノの持つ硝酸へ飛びかかろうと前のめりになる。しかし犯罪者然と手錠や腰紐で拘束されているSAIが硝酸を奪うことなどできるわけもなく、陽によって腰紐へ繋がる紐をクイと引かれたSAIは陽の元へと虚しく引き戻された。
「では石のままでいたかったか、起こしてから彼女に聞けばいい。石でいたかったと彼女が言ったなら、その時は本人の意志を尊重して石化させようじゃないか」
「知らないから、そんなことが言えるんだっ!ナマエちゃんがどれだけ、七海の家に呪われてるかっ!」
「ハッ!呪い!」
呪い。科学クラフトを次々進める毎日で、久しく聞かなかった単語だ。石化から解けて以来、初めて聞いたと言っていい。
理数系の卓越したセンスを持ち、庶子とはいえ財閥家系の息子として世界の上澄みの中で一流の教育を施されたSAIが、呪いなどという前時代的なものを信じているのだろうか。
好きな女を石化したまま独占したくて、言うに事欠いてそう言ったのか?
それとも、呪いと表現するのが現時点で適切な、極めて特殊な何らかの現象が七海家の中に存在するのか?
人差し指と中指を立てて思考を集中させようとしても、非合理的な前提が多すぎて何も推測できない。
まとまらない考えの整理を半ば放棄していると、カツンとレザーソールの小気味良い音を立ててゼノが石像の女の前へと躍り出た。
「合理的な反対意見は無いようだから僕の案で進めたいんだが、異論のある者はいるかな?」
若くしてNASAの研究員を勤めていた経歴は伊達ではない。ドクター・ゼノの優秀さはその頭脳だけで成るものではなく、このある種のカリスマ性も大きかったのだろう。
この空気の中で異論を挟むような奴はいない。
しかし、これだけは確認しなければ。ナマエという人間が、人手としてカウントできる人物なのか。特にこの、恋愛脳じみた数学者と科学者という面倒事を抱えていてもプラスになるような何かがある奴なのか。
「つーかゼノ先生、随分そのナマエって女の復活に入れ込んでんじゃねーか。知り合いか?」
「おお、すまないね、千空。説明を忘れていたよ。彼女は七海ナマエ——。短い期間だが僕の同僚だった、NASAの優秀な職員さ」
日本人同士、百夜とも仲は良かったんじゃないかな。
そう言って石像の頰を鉤爪のついた手袋で器用に撫でながら、ゼノはヒビの跡が残る瞼を伏しがちにして上品に微笑んだ。