勝利の美酒を手にしたような気分で、ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールドは硝酸の小瓶を開けた。
「嫌だああああ!ナマエちゃんっ、ナマエちゃんはずっと石のままでいたいんだっ!」
「だーかーらー、さっきゼノ先生も言ったろ!?本人がそう言ったら石に戻せばいいじゃねーか!」
未だ騒ぎ、もがいているSAIを千空が窘めているのを聞きながら、硝酸を彼女の頭からトプリと注ぐ。
注ぎ終わってから復活するまでの、この僅かなタイムラグがもどかしい。
彼女のような聡明な人間が硝酸で復活できない訳がない。命を賭けても良いほど自信はあるが、反応を待つこの時間の緊張感はどうしても拭えない。
1秒、2秒、3秒——。
幾数秒数えたところで、彼女の目元にヒビが入った。
羽化したての蝶が、蛹から羽ばたく刹那のように。
薄光に包まれながら全ての石片がカラリと音を立てて落ち、自由になった彼女が、長く艷やかな睫毛のけぶる瞼をゆっくりと開いていく。
「ドクター・ゼノ?」
彼女の声だ。記憶と寸分変わらない、自分の名を呼ぶほんのりと甘い声。
「ああ⋯⋯久し振りだ」
女性らしく丸みを帯びた頰を撫でると、彼女はじゃれつく子猫のように僕のされるがまま瞳を閉じた。
手袋越しにじんわりと伝わってくる、彼女の体温が心地良い。頬から顎へと手のひらを滑らせると、彼女はくすぐったそうにクスクスと笑った。
「それにしても、偶然ですね」
「偶然?」
頬を撫でていた僕の手に、彼女の華奢な手がふわりと重ねられる。
その手の柔らかさにティーンのように胸を高鳴らせていると、出会った時のような微笑みを浮かべている彼女と真正面から目が合った。
「ええ。私、今ちょうどドクターのことを考えていたんです」
「おお⋯⋯!それは、嬉しいな」
嬉しいなんてものじゃない。彼女の言葉が遠い星からの最初の電波のように僕の心の奥深くへ響き、心拍数、体温、呼吸数のどれもがこれまでにないくらい上がっていく。
ああ、今すぐナマエの全てを管理したい。
そうだ、現在の状況を説明して、僕の秘書として働かないか聞いてみよう。そうすればNASAの頃よりも親密に、長い時間を彼女と共に過ごすことができる。
「そんな、ナマエちゃん⋯⋯。ナマエちゃん、ナマエちゃんっ!」
「すみません、ドクター。続きは後ほど」
SAIが女々しい嗚咽を上げながら、ナマエの名を何度も呼ぶ。思わず舌打ちしそうになった僕をよそに、ナマエは静かに目礼して声のする方——SAIの元へと向かった。
「SAI、」
「ごめんなさいっ!ナマエちゃん、ごめんなさいっ!僕、僕がっ、止められなくて!ナマエちゃんはっ、ずっと石のままでいたかったのにっ!」
崩れ落ち、跪いて彼女を見上げる瞳からボタボタと大粒の涙を流し、SAIがあの妄言めいた言葉とともに謝罪を口にする。
ため息の一つでも溢すのかと彼女の動向を見守っていると、ナマエはたったさっき彼女に僕がそうしていたように、SAIの頰へと手を触れた。
「ありがとう。私のためにたくさん頑張ってくれたんですね、SAI」
「ナマエちゃんっ⋯⋯!」
コクコクと頷く度に頰を伝う彼の涙を掬いながら、ナマエが陽へと困ったような微笑みを向け、腰縄と手錠へと目配せした。
「解いていただいても?」
「う⋯⋯うぇい⋯⋯」
頼みというよりも女王から家臣への命令めいた響きだった。魔に魅入られたように頷いた陽はいそいそとSAIの腰縄を解き、手錠の鍵を外した。
「親戚がお手間をかけました」
「いやっ、全然⋯⋯」
「ナマエちゃんっ!僕、ぼくっ!」
「SAI、」
何かを言いかけ、嗚咽で声を詰まらせるSAIに、ナマエが内緒話をするように鼻先で人差し指を立てる。
「帰りましょう」
「⋯⋯うんっ!」
子守唄のような、優しい声だった。
タックルのように胸へ飛び込んで行ったSAIを抱き止めたナマエが、SAIの背をあやすように撫でる。SAIのすすり泣くような嗚咽が潜んで行ったところで、ナマエがクルリと振り向いて室内にいる僕ら全員を見渡した。
「家のことでご迷惑をおかけしました。皆さまと何もお話できていませんが、夜も遅い様子⋯⋯。挨拶は明日以降改めて。皆様、良い夜を」
微笑みを残して背を向けた彼女がSAIを見上げると、さっきまで子どものように泣いていたSAIは彼女と少し似た微笑みを浮かべて、慣れた仕草でエスコートの腕をナマエに差し出した。
細く小さな腕をするりと通し、下品でない程度にSAIの腕へと身を寄せたナマエが、一歩ごとに彼と共に夜の闇へと溶けていく。
嗚呼、今自分は妬ましさというものを覚えている。
血縁として、ナマエの帰る場所になれるSAIが心底羨ましく、――妬ましい。
もし僕もナマエと家族だったなら、彼女の帰る場所になれるのに。
たとえ二人の間にあるのがただの身内としての情だとしても、男の腕へ親密そうに寄り添って夜に消えていくナマエを見守るしかできない自分がもどかしい。
未知の化学反応を起こしたように熱くなっていく胸を、掻きむしりたくなった。