その日、天才科学者ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールドは手のひらの上でコロコロとぬいぐるみを転がしていた。
自分を模して拵えたぬいぐるみ。
千空の幼なじみの女性から「石化前の日本では好きなキャラクターのぬいぐるみを持ち歩いたりする、『推し活』と呼ばれるムーブメントが流行していた」と聞き、ぬいぐるみを手に顔を綻ばせるナマエを思い浮かべていたらついついクラフトしてしまったが――。
付き合ってもいない、職場の同僚に贈るものとしてこの自分そっくりな造形はまずかったと、作り上げた今になって後悔している。
指貫の先に吊り下げて、渡す先のなくなってしまったそれと見つめ合っていると、ラボの扉が3度のノックの後に控えめな音を立てて開かれた。
「ドクター、休憩中にすみません。少し伺いたいことがあって……、あら?」
仕舞う間もなかったぬいぐるみを目に留めて、ナマエが花の綻ぶように微笑んだ。
「まあ、可愛らしい。どなたかからの贈り物ですか?」
僅かに腰を屈めた彼女が、まるでぬいぐるみの僕へ話しかけるかのように僕の指先に吊り下がるそれへと視線を注ぐ。
「こういったものを持ち歩くのが日本の女性たちの間で流行していたとMrs.大木から聞いたものでね。君にどうかと思ったんだが、少々造形を誤ってしまったようだ」
「何かダメなんですか?縫製も丁寧で、販売もできる仕上がりに見えますが⋯⋯」
「おお。では貰ってくれるかい?」
「ええ。いただけるのでしたら、ぜひ」
心なしか常より声の弾んでいる彼女へ指貫の先から彼女の手のひらへとぬいぐるみの僕を渡すと、彼女は生まれたてのベイビーを抱えたように愛しげに目元を緩ませた。
「ありがとうございます、ドクター。大切にしますね」
爪の先まで整った女性らしい両手でぬいぐるみを大切そうに抱えたナマエが、それへささやかな頬ずりを寄せる。
⋯⋯何だろう。今僕は、彼女の柔らかそうな頬の感触を味わっているぬいぐるみの僕にどうしてか面白くない気持ちになっている。
まさかこの場面で抱くとは思っていなかった妬心のあまり、この時の僕は彼女へぬいぐるみの仕様を説明するのを失念してしまった。
柔らかな手触りを維持したまま撥水加工と防炎加工を施した布地に、誘拐等の緊急時を考えて内部に仕込んだGPS。
⋯⋯どれも現在のストーンワールドではそう大した技術ではないから、いちいちひけらかすように説明しなくてもいいか。
未だぬいぐるみの髪の部分を撫でてみたり、口元を人差し指の先でつついてみたりと、綿の固まりの僕と戯れているナマエの姿をまだ眺めていたくて、些末な説明はコーヒーと共に飲み干した。
あれから休日を挟んで3日後。
⋯⋯増えている。
彼女の腰に巻かれたベルトバッグに吊り下がっている僕のぬいぐるみがひとつ。
そしてその隣にもうひとつ――。
「ナマエ、おはよう。⋯⋯それは?」
「おはようございます、ドクター。⋯⋯やっぱり2つもつけたらおかしいでしょうか?」
「いや、そんなことはないよ。だが⋯⋯」
僕のぬいぐるみの隣にぶら下がる、風になびくような黒髪の、白のサテンシャツと黒いズボンを履いたぬいぐるみ。
デフォルメされているが、どこからどう見ても彼女のいとこにして同居人・七海SAIを模したぬいぐるみだ。
「どうしてSAIのぬいぐるみが?」
「それが⋯⋯ドクターのぬいぐるみを見たらなぜか触発されてしまったみたいで⋯⋯」
「⋯⋯?」
少々歯切れの悪いナマエの様子に首を傾げてしまったが、SAIから子どものように泣きつかれて彼の我が儘を聞き入れるナマエの姿は普段の2人のやりとりから容易に想像がつく。
「すまないね。僕のプレゼントのせいで君を煩わせたなら胸が痛いよ」
「いえ、ドクター・ゼノ。こんなに可愛らしいのに、煩わしいなんてことは絶対にありません」
ナマエに穏やかな眼差しを向けられているぬいぐるみたちへ、思わず厳しい目つきを向けてしまう。
彼女の喜ぶ顔が見たくて作ったのに、どうして僕は彼女がぬいぐるみへ笑顔を向ける度に鬱屈した気持ちになるのだろう。
ざわめく鼓動に心臓付近を知らず押さえていると、ラボのドアが開いた。
「ゼノー、なんかSAIが来てんぞ」
「ご、ごめんっ、時間より早くついちゃってっ⋯⋯」
クロムの後ろから姿を現したSAIが、肩をすくませながらパタパタとデスクの側へとやってくる。
申し訳なさそうにはしているがこの男、5分10分前どころではない時間にやってきた挙げ句、ちゃっかりとナマエの隣を陣取っている。
「SAI、ダメですよ。ドクターにも予定があるんですから、あまり早くに来るのはマナー違反です」
「そ、そうだよねっ、ごめんねっ、ゼノ、ナマエちゃんっ、ど、どこかで待たせてもらってもいいかなあっ⋯⋯?」
「仕方ないですねえ。ドクター、少しSAIを空いている会議室に連れて行ってきます」
「ありがとうっ、ナマエちゃんっ!」
子犬のような笑顔を浮かべて、SAIがナマエにピトリと寄り添う。いとこという身内同士の気安さがあるとはいえ、ビジネスとしては近すぎる距離だ。
「いや、ナマエ、構わないよ。せっかく早くに着いてしまったんだ。このまま仕事の話をしよう」
SAIを連れてドアの方へ向かうナマエを思わず呼び止めた。止まった彼女へ残念そうに眉を下げたSAIの顔を見るに、僕の咄嗟の判断は間違っていなかったのだろう。
呼び止められたナマエの動きにつられて彼女の腰で揺れたぬいぐるみ。GPSを搭載している僕のそれよりも、SAIのぬいぐるみの方が揺れ幅が小さい。
⋯⋯何か、入っている。GPSよりも重い何かが。
不審に思っていると、ラボのドアがおもむろに開いた。
「ゼノー、あとでいいからこの前精度上げてくれたこの金属探知機見てくんねェ?さっき電源入れてからずっと鳴ってんだけどよォ〜、」
SAIを案内してきたクロムが金属探知機を片手に入ってくる。それから鳴るビーッ、ビーッという探知音は、彼女の腰に近づくにつれてけたたましくなっていく。
「なんかよォ、ヤベェんじゃねえか?このちびSAIに反応してるように見えんぜ?」
「おお、Dr.クロム、君の言う通りだ。SAI、ぬいぐるみの中に何を仕込んだのかな?」
「そっ、そんなっ⋯⋯。今はまだ小型カメラなんか無理だって、君も分かってるだろっ!?」
「カメラはね。だが無線を使った簡単な盗聴器なら内蔵可能だ」
「⋯⋯!」
図星だったのだろう。ビクリと肩を揺らしたSAIが、ナマエの方へと視線を向けた彼は、ワタワタと身振りを大きくした。
「ごっ、ごめんね、ナマエちゃんっ⋯⋯!でも僕っ、ナマエちゃんの生活音がどうしても聞きたくってっ⋯⋯」
⋯⋯生活音が聞きたくて?
おお、なんとシンプルに気持ちの悪い理由だろうか。いっそ清々しいほどのストーカー発言を繰り出したSAIに、真夏だというのに薄ら寒くなってくる。
居合わせているクロムも「ヤベェ⋯⋯」と呟きながら身震いしている。
身内だからかSAIに甘いきらいのあるナマエでも、さすがにこれは同居解消も考えるはず――。
「道理で重いと思ったら⋯⋯。SAI、そんなもの聞いても意味ないでしょう?」
「意味なくないよっ!ナマエちゃんの声とかっ、足音とかっ、服の擦れる音とかっ⋯⋯、そういうのを聞いてるとっ、ナマエちゃんがすぐ側にいるみたいでっ、僕っ、プログラム以外の仕事も頑張れるんだっ!!!」
「そうなんですか?なら仕方ないですねえ⋯⋯」
「――!?」
「ヤベェ⋯⋯!」
なら仕方ないですね、だと???
どうしてそうなる。
盗聴器だ。盗聴器が仕込まれているんだぞ。そして足音から衣擦れの音に至るまで、日常で生じる些細な音のひとつひとつが漏れなくSAIに聞かれている。
常人なら悲鳴でもあげてぬいぐるみを投げ捨てているところだ。ちなみに僕ならスタンに原型も留めないほど破壊してもらう。
「ナマエ、冷静に、冷静に考えるんだ。君、日常生活を盗聴されているんだよ⋯⋯?」
「懐かしいですねえ。アメリカでの暮らしを思い出します」
⋯⋯そうだった。
石化前、ナマエがSAIの盗撮盗聴前提のスマートハウスで暮らしていた、たくましい女性であることを失念していた。僕の心配などさっぱり構わず、レモネード片手にロッキングチェアに揺られているかのように昔を懐かしんでいるナマエのある種の鷹揚さに目玉が飛び出そうになる。
しかし、少し待ってほしい。あの時と今とでは決定的に違うところがあるのだ。
「ナマエ。あの時は盗撮・盗聴が家電のプログラムに反映していたが、今は君、ただ盗聴されるだけだろう?」
そう、今盗聴を許してもナマエにメリットがない。物資や生産ラインの潤沢でない今、嘗てのように盗聴を活かしたスマート家電を作り出すのは不可能と言っていいだろう。
この事実の指摘ならさすがにナマエもSAIのぬいぐるみを手放すはず――。
「私だけで言えばそうですが⋯⋯。SAIは龍水財閥のIT責任者。彼のパフォーマンスが上がることで利益を享受する人間はたくさんいます。ちょっと音を聞かれるくらいで文明復興が早まるなら、まあいいかな、と」
良くはない。なぜナマエはここで妥協できてしまうんだ。上流階級らしい大らかさではあるが、それをこんなところでまでも発揮しないでほしい。
「すまないが、機密情報も扱っているんだ。セキュリティに問題のある物の持ち込みは遠慮して貰いたいね」
「すみません、ドクター・ゼノ。こちらはこれから職場には持ってこないようにします⋯⋯」
しょんぼりと肩を落とすナマエの姿に、氷の針を突き刺されているように胸が痛くなる。ストラップのようにぶら下がっていたSAIのぬいぐるみがバッグの中に仕舞われていったことでほんの少し溜飲は下がったが、依然苦く黒い霧が胸の内に散乱している。
そして、クロムの探知機の音も、依然鳴っている。
「なんかよォ⋯⋯、探知機、コイツにも反応してねえか⋯⋯?」
コイツ、と言ってクロムが指しているのは僕のぬいぐるみ。当然だ。だってそれに使用したGPSには、特殊な金属を使用している。
「なっ⋯⋯!ゼノっ、君もっ、ぬいの中に見守りマイクを入れたのっ!?」
「おお、ものは言いようという日本語はこういう時に使うのだろうね。だが、君と一緒にしないでくれ。僕は盗聴器の類は一切入れていない」
「でもよォゼノ、探知機ヤベェ鳴ってるし、これ絶対何か金属入ってんぜ?」
未だ鳴り続けている金属探知機をぬいぐるみに近づけながら、クロムが確信を持って言う。
さすがクロム、エレガントな着眼点と閃きの光る彼が見過ごすはずもない。
「ナマエ、渡したときに細かい仕様を説明しそびれてしまったが、誘拐などの緊急時に備えて念のためGPSを入れさせてもらったよ」
「GPS!?ヤベェ!こんな小せェのに入れられんのを作ったのかよ!?」
「もちろん拾える電波に限度があるから測位誤差は生じるがね。嘗ての僕のような囚われの身になったとしても、これさえ肌身離さずつけていてくれたなら、僕は必ずナマエを救い出すとも」
「ドクター。そこまで考えてくださっていたなんて、嬉しいです⋯⋯」
僕のぬいぐるみをそっと手で包みながらはにかむように言うナマエに、霧の立ちこめていた胸に暖かさが広がっていく。
「いっ、いやだああああっ!GPSがいいならっ、僕の見守りマイクだっていいじゃないかっ!」
「SAI、あまりわがままばかり言わないでください」
「だってっ、ずるいよっ!ソイツばっかり!!僕たちの愛の巣に勝手に入って来ただけで許せないのにっ、ナマエちゃん、ソイツに構いっきりじゃないか!」
「ちょっと、SAIっ」
秘密を暴露されてしまったように目を見開いたナマエが、SAIが言葉を紡ごうとするのをなんとか止めようとしているが、「ずるい!ずるい!」と連呼するSAIのクレームは止まりそうにない。
「ご飯食べるときもおひざの上に乗せてるしっ、お風呂にも連れて行って、寝るときまで一緒じゃないかっ!」
「SAIがくれてからはSAIぬいもドクターぬいと一緒に可愛がってるでしょ!⋯⋯あ、」
SAIに言い返したあと、ナマエがハッとした顔で僕とクロムの方を向く。
「ナマエってこーいうの可愛がったりすんだな。なんかスゲェ意外」
「そんなことないよっ。ナマエちゃんっ、ちっちゃい頃はよくドールハウスとか作ってたしっ、アメリカにいた頃も、10歳の誕生日におじいちゃんから貰ったテディベアと一緒に寝てたしっ、それにっ⋯⋯もがっ⋯⋯」
「SAIっ、やめてくださいっ!」
ピンとつま先立ちになって、ナマエがSAIの口をふさぐ。よほど必死だったのだろう。珍しく頬を耳まで紅潮させたナマエは、SAIの口を塞ぐ手へ力を込めるために背伸びをした上に前傾姿勢になっていて、ぐらりとバランスを崩していった。
このままだと、そのままSAIの胸へと倒れ込む。まるで熱い抱擁を交わしているかのように。
脳内にそんな予測が広がっていくうちに、反射的に彼女の手を強く引いていた。
凛と花開くホワイトローズのような甘く洗練された香りが、胸にかかる彼女の髪からふわりと広がって、鼻腔から僕の肺へと流れ込んでくる。
「ぴ、ぴぎゃああああああ!はなっ、離してよっ!ナマエちゃんはっ、僕のお嫁さんだぞっ!」
「SAIの妄言はさておき、ナマエ、大丈夫かい?つい強く手を引いてしまったね、すまない」
「平気です、こちらこそすみません。朝からお恥ずかしいところばかり⋯⋯」
「おや、何も恥ずかしくなんてないだろう?プレゼントを大事にしてもらえているようで、僕は嬉しいよ」
家の中、どこへ行くにも小さな僕を連れ回し、SAI以上に構っているナマエ。
おお、実に気分がいい。
ぬいぐるみにどうしてか面白くない気持ちになっていたのがまるで嘘のようだ。僕は一体、どうしてぬいぐるみにあの黒いもやが立ち込めるような感情を覚えていたのだろう。
「うっ⋯⋯、うぅ〜っ⋯⋯。ナマエちゃんっ、ゼノとぬいばっかりじゃなくてっ、僕にも構ってよう」
「SAI、家でも言ったでしょう?ぬいぐるみに嫉妬しないでください」
困ったように僅かに眉を下げたナマエが、大型犬を撫でるようにSAIの黒髪を優しく撫でる。
⋯⋯嫉妬。
そうか、僕は自分で作ったちっぽけな綿の塊に嫉妬していたのか。
まったく、これではSAIを笑っていられない。
「すみません、ドクター・ゼノ。こんなことでお時間を取らせて⋯⋯。コーヒー、お持ちしますね」
ぬいぐるみを愛でる趣味を知られたことがそんなに羞恥を覚えるようなことだったのか、未だ頰に薄桃色の赤みを残したナマエが脱兎のようにラボのドアを開けて去っていく。
「おお、SAI。気を取り直してビジネスの話をしようじゃないか。」
「う、うんっ。半導体がなくても作れる、新しいポータブル防犯デバイスのクラフトだよねっ!」
メソメソと嘆いていたのが嘘のように、SAIが少年のように目を輝かせてと溌剌と言う。
半導体なしで21世紀のような小型デバイスを作るのは限りなく不可能に近い。しかし、僕の科学とSAIの数学の力を合わせたなら――。
「⋯⋯ってアレ?見守りマイクとかいうヤツとGPS入れてる話は結局良くなったのか?」
ナマエの消えていったドアの方を見ながらクロムが不思議そうに呟いたが、たった今、さらに彼女を守る防犯グッズをクラフトしようとしている僕たちにとっては若干都合の悪い指摘なので、彼には悪いが聞こえないふりをさせてもらった。