「おっ、花沢少年。」
妙な呼び名で呼び止められ、歩みを止めた。声の主は、前から歩いてきた女性だった。買い物帰り、という風体だ。
こちらに手を振り、へらっと笑ったその顔で、幼い頃の記憶が甦る。
「名前さん?」
小走りで駆け寄るその人は、僕にとって「近所のお姉さん」だった人物だ。よく遊んでもらったし、知らないことを教えてくれた。けれどそれは随分前の話で、僕が小学生に上がる頃に名前さんは引っ越してしまった。今は、大学生くらいだろうか。
突然の再会と、時間の経過なんてものともせず自分に気付いてくれたこと、僕自身も彼女に気付けたこと。動揺をいくつも重ねる僕の心の内なんて知るよしもなく、名前さんは話しかける。
「久しぶり!おっきくなったねえ」
お久しぶりです、と返事をしながら、彼女のヒールのあるサンダルを見つめる。これがなければ僕のほうが背が高そうなものを、と少し歯がゆい。
「お父さんお母さん、相変わらず忙しいの?」
「あー……まあ、そうですね」
今思えば、名前さんが僕を構ってくれていたのは、両親が家を空けることの多い僕を案じてだったんだろう。また心配をかけるのも申し訳ない気持ちがあって、つい曖昧な返事になってしまった。
「そっかあ……」
天を仰ぐ彼女は何かを考えているようだった。じゃあまた、と声をかけるべきかと口を開きかけたところで、名前さんの「輝気くん!」という声で口を閉じた。
「お昼ごはんもう食べた?うちで食べていきなよ」
「えっ、でも」
「だめかな?おねーさん一人で寂しかったんだよー」
ね、と彼女は買い物袋を持ち上げてみせる。
名前さんは、昔と変わらず気にかけてくれる。そう思うのに、僕の方はと言うと、昔とは違って素直に甘えることができないでいる。気遣われているのがわかるようになったのは、成長なんだろうか。
答えあぐねていると、名前さんの顔が視界いっぱいに広がった。
「そうめん、好き?」
そう言って手に持つ買い物袋を掲げる彼女に、うなずくことしかできなかった。
通された部屋で、昼食ができるのを待つ。なんとも手持無沙汰で、よくないとは思いつつ周りを眺めてしまう。
始めは名前さんの生活感を感じて、照れくささがあった。しかし、だんだんと目についたのは広めの間取り、何かにつけてペアで置かれた日用品。
「一人暮らしではないよな、これ……」
独り言が虚しく響く。
いや、はっきり言ってしまえば「同棲中」なんだろう。むしろ結婚していてもおかしくはない。直接的な表現を避けたのは、僕の中で『憧れの年上のお姉さん』が知らぬ間に『絶対に手の届かない女性』に変わったと認めたくなかったからだった。
手が届くと思っていたのかと聞かれるとそれもまたちがうけれど、幼い頃の自分を振り返れば、きっと僕は彼女のことが好きだった。
今はどうだろう。
わからない、と考えを放棄するのは簡単だけれど、じゃあ今日名前さんの部屋に呼ばれたという事実に全く心が踊らなかったのか。そんなことはない、なんらかの期待はあった。
「(つまり、これは)」
失恋。
初恋は実らない……そんな言葉が重くのしかかった。
「お待たせ!」
結論付いたと同時に、名前さんがキッチンから現れた。平静を装って振り返るが、目は泳いでしまった。先程までの思考を考えないように、と念じて、名前さんの手料理を見る。
そうめんと聞いていたのでオーソドックスかつシンプルな見た目を想像していたが、それを打ち消す鮮やかさに目を丸くした。
「冷製パスタ……みたいですね。おいしそうだ」
「いつもはめんつゆで食べちゃうけどね。今日は輝気くんが来てるからオシャレにしてみました」
そうめんに乗っているのは、トマトと大葉だろうか。気を遣わなくてよかったのに、と思いつつ、その一手間が嬉しかった。そういえば、一緒にいたのは小さいころだったから、名前さんの手料理なんて初めてだ。
促され、二人で手を合わせて食べ始める。
「そうめんなのにイタリアンで不思議です。おいしい」
「ほ、ほんと?初めて作ったから心配だったんだよね……よかった!」
「おばさんの料理もおいしかったけど、名前さんも料理上手なんですね」
思ったことを伝えると、名前さんはなぜだか驚いた顔をしていた。
どうしました、と聞くと、「輝気くん、モテるでしょ……」と放った。
「普通、男の人ってそんなストレートに褒めてくれないよ!どきっとした……」
僕からすると名前さんの言葉のほうがよっぽどどきっとするのに。そう思いながら、「彼氏は褒めない人なんだろうか」と疑問が浮かんだ。少しだけ、僕ならちゃんと言葉にするのに、という嫉妬と、彼氏より出来ることがあったという優越感を持った。
よくない。張り合ったって仕方ないのに。
そう思うのに、気づけば僕の口からは「彼氏さんは褒めてくれないんですか?」と発せられていた。
「え?」
きょとん、と手を止める名前さんを見つめる。次の言葉を、まるで刑を言い渡される被告人のような心持ちで待つ。
「私、彼氏いないよ」
「…………え、」
理解できないまま、「だって、部屋……」とだけやっと呟くと、それだけで理解してくれたようで、「あっ!これ!?ルームシェア!女の子と!」と名前さんまで焦ったように単語ばかりの返事をする。
ルームシェア……?
「そっかそっか、そうだよね、二人暮らし丸出しだもん、彼氏と思うよね!」
先に言えばよかった!と明るく謝る。ようやく事態を飲み込めたぼくは脱力し、あやうくフォークを手から落とすところだった。
「親友とね。彼氏が出来たらルームシェア解消しようとは話してるんだけどね」
「そ、そうなんですか。すみません、勘違いしてしまって……」
さすがに恥ずかしさで顔をあげられず、食べはじめより水分を多く含んだそうめんを見つめながら、謝った。
勝手に勘違いするなんて。気持ちばっかりが先走ってしまった。
「でもね、最近その友だちに男の影が見えてて……これ私が出ていかなきゃなのかな……」
赤面する僕をよそに話題を変えてくれる。僕も安心してまたそうめんを食べながら会話した。
そうめんはやはり、スープを吸って味が濃くなっていた。
「めでたいんだけど、ルームシェアに慣れてきちゃうと一人暮らしが寂しくなりそうでねー」
複雑そうに笑うに彼女に、「彼氏と決まったわけじゃないんでしょう?」とフォローのような一言を投げ掛けると「いやいや!一人暮らしの男の部屋行ってるんだからほぼ決定だよ!」と興奮気味に返ってきた。その姿が面白く思えてしまってつい笑うと、冗談半分にとがめられた。
それからもお互いの学校の話なんかをしていたら、思っていた以上に時間が経っていた。
「今日はごめんね。なんだか無理やり誘っちゃって」
「いえ、そんな。楽しかったです。ごちそうさまでした」
玄関先で、「送っていこうか」と声をかけられ、また子供扱いをされたように感じた僕は、仕返しのように名前さんに話しかけた。
「名前さん」
「うん?」
「次は僕の家、来てくれませんか」
僕の言葉に微笑んで、いいよ、お部屋掃除でもしようか?なんて軽口を叩いている。
「ありがとうございます。それじゃあ……あ、」
「ん?忘れ物?」
「僕、一人暮らしなんですけど……いいですよね」
返事を待たずに挨拶をして家を出た。振り返るとまだ固まっている名前さんが見えて、たまらず笑みがこぼれてしまうのを抑えながら、一人暮らしの部屋への道を歩いた。
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そうめん
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2016- やぶさかデイズ
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