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「おつかれ。すごく良かったよ」
 タオルで汗を拭ったり、水分を摂ったりしている三人に声をかける。
「撤収時間は三十分後だから、さっさと着替えて、忘れ物無いようにな」
 翔太ははーい、と若干気の抜けた返事を返す。冬馬は「まあ、まだまだこんなもんじゃねぇけどな」と真っ直ぐな向上心を露わにして、北斗はそんな二人を微笑ましげに眺めている。いつも通りの風景だが、Jupiterのこういうところがなんだか良いんだよなあ、と俺は支度をしながらひっそり思った。
「もう遅いから、特に冬馬と翔太は寄り道せずに真っ直ぐ帰ること。駅まで送って行くからな」
 今日借りたスタジオは、駅までそこそこの距離がある。日も暮れて、時間帯的にはもうすっかり夜であるから、二人がしっかりしているとはいえど送迎は必要だろう。俺と、冬馬と翔太、そして北斗も一緒に四人で歩いていると駅までの道はあっという間で、「それじゃ、また明日な」と未成年の二人が改札を抜けるのを見届けた。
「北斗はどうするんだ?」
 なんとなく手持ち無沙汰そうな北斗に聞くと、うーん……と少しの間をおいて「プロデューサーこそ、何か用事が?」と問い返された。
「一度事務所に戻ろうかなと思ってな。用事というほどでは無いんだが、一応」
「じゃあ、俺も付いていってもいいですか?」
 俺が若干怪訝な顔をしたのに気が付いたのだろう、北斗は「今日のレッスンが、楽しかったので。なんだか真っ直ぐ帰りたくない気分なんです」と少し照れ臭そうにはにかんだ。
「ああ、じゃあ一緒に行くか」
 ありがとうございます、ぜひ。と嬉しそうにする北斗と並んで、街灯や店の看板の明かりが照らす道を歩き始めた。夏のもわっとした空気が、俺たちが歩くのに合わせてかき混ぜられていく。
 少し前を歩く北斗は慣れた足取りで少し薄暗い道に足を踏み入れた。俺は北斗がかなり人気のない、いわゆる路地裏とも言うような道を選んだことに少なからず驚いていた。
「北斗は……いつもこの道を使ってるのか?」
「ええ、時々は。人通りが少なくて中々便利ですよ」
「それは……まあ、そうだろうけど。つまり何かあっても気づかれにくいってことなんだから、気を付けろよ」
「はは、ええ。過信はしていないつもりです」
「ならいいんだ。……それにしても、お前はあまり、人目を気にしない方かと思っていたが……」
 知名度がかなりのものであるにも関わらず、北斗の普段の変装は帽子に伊達眼鏡といった簡単なものだ。私服の方向性が違うわけでもないし、なんなら素敵なエンジェルちゃんを見かけたら躊躇なく声をかけるから、変装とは言っても形だけのものであまり意味をなしていない。だから、騒ぎになるのを避けるために人通りの少ない道を積極的に選んで歩くようなタイプではないのだろうと思っていた。
「まあ、否定はしませんよ。ただ、こういう道を知っていると、便利なこともあるんです」
 北斗は意味深に微笑む。どういった方向性の話なのか推測が難しい返し方をされてしまった。いや、こういう時の北斗はその実あまり深く考えずに話しているからな……と「そうか」と短い返事を返す。さっさと暗い路地を抜けようと歩みを進めようとした瞬間、隣の北斗が急に鋭い声を発した。
「プロデューサー!」
 突然北斗にどん、と身体を突き飛ばされて、硬いアスファルトの地面に転がる。何が起こったのかわからないまま、体勢を立て直そうとしたまさにその時、静まり返っていた路地裏に、何かとても大きな衝撃音が響いた。……例えるなら、重い金属が高いところから落ちてきたような。ぎぃぃん、と辺りに音が反響する。びりびりと耳に伝わる衝撃に顔をしかめながら、切れかけの街灯のぼんやりとした灯りを頼りにゆっくりと北斗の方を振り返った。

「あ……」
 目の前の光景がうまく飲み込めなくて、無意識に、そう声が出ていた。夜の路地裏には俺と北斗以外誰もいない。月を覆っていた分厚い雲が流れて、冷たい月光が目の前に広がる惨状を照らす。
「ほ、北斗」
「……プロデューサー、俺は、大丈夫なので……着替えを、買ってきてくれませんか」
 北斗は、何か大きなものに押し潰されていた。鉄骨だ。上を仰ぐと、工事中らしく足場の組まれたビルがあった。おそらくそこから落ちてきたものだろう、とやけに冷静な俺がそう言った。
 北斗の様子はと言うと……「まだ」辛うじて話はできるようだが、下半身などはぱっと見ても分かるほど酷い有様だった。腰のあたりをちらりと見やると、地面にぐちゃりと潰れた肉や骨のかけらが散らばっている。この分だと内臓ももうダメだろう、と素人目にも分かってしまった。ひゅう、と微かに漏れる呼吸音に混じって、ごぼごぼと恐らく血が原因だろう水っぽい音も聞こえる。
 ……とにかく確信できるのは、北斗はもう助からないだろうということだ。こうなっては人間は生きていけない。そう誰が見ても分かるほど、北斗はぐちゃぐちゃになってしまっていた。
 だから、先ほどの台詞を聞いた時、あまりの状況に上手く働かない俺の脳が弾き出した結論は、こいつは錯乱しているのだろう、であった。
「着替え……、北斗、お前に今必要なのは救急車だよ」
「いえ、着替えを。入りさえすればサイズは合わなくても良いですから……人が通らないうちに、早く」
 不気味なほど冷淡な声で北斗は言った。整った顔には、ついさっきまで浮かべていた微笑みが嘘のように何の感情も浮かんでいないように見えた。口元に自らが痛々しい咳と共に吐いた血がべったりと付着している。ごぼっとまたひとつ咳をして、いつもはファンに愛を囁く唇をレバーのような血の塊がぬるりと流れ落ちた。
 ここに来ても北斗は……顔こそわずかにしかめたものの、一言も痛みや恐怖を訴えることはなかった。それどころか自らの身体がぐちゃぐちゃになっているというのに、鉄骨が北斗の身体を押し潰したあの瞬間からだろうか、北斗は普段よりも数段冷静な、言ってしまえば冷徹なようにすら見える。もちろん、俺から見れば、の話ではあるが。
 分からない。なぜ北斗はここまで「いつも通り」なのだろうか。普通なら、錯乱しているにせよもっと……。
 と、そこまで考えて、俺はふいに違和感の正体に気がついた。先ほどは北斗のこの態度を冷静であると位置付けたが、そうではない。ただ冷静なだけではない。まして錯乱など、北斗は初めからしていないだろう。今の北斗から感じるのは、自らの置かれた状況への無関心さだ。まるで、マニュアルに、あるいは自らの経験則に、淡々と従っているだけのような。
 ぞっと背筋をなにかが走った。……恐ろしい。俺は、目の前の今にも死にそうな怪我を負った美しい男に、その得体のしれなさに、恐怖を覚えているのだ。
 月をまた雲が覆って、あたりには街灯の薄ぼんやりとした、明かりとも言えないような仄かな光だけが残る。俺は未だ何もできず、ただその場に呆然と立ち尽くすばかりであった。
「……プロデューサー」
 北斗が俺を呼ぶ。俺が動かないのを見ると、北斗は微かにため息を吐いて、身を起こそうとする。
「お、おい、北斗」
 そんなことしたら……、と続けようとした言葉は声にならなかった。先ほどまでその質量とビルの屋上からの落下エネルギーでもって北斗の身体を完膚なきまでに押し潰していた鉄骨が、いきなりけたたましい音を立てて血で濡れたアスファルトを転がったのだ。
 え、と声が漏れる。大きな音に驚いたというのももちろんだが、今、見間違いでなければ、北斗がその腕で鉄骨を退かしたように見えたからだ。
 それを驚愕の眼差しで注視していると、更に信じがたいことが起きた。……鉄骨が退き、もはや原型をとどめてすらいなかった北斗の痛ましい姿が露わになっていたのだが、その身体がめきょ、と形容しがたい不気味な音を立てたかと思うと見る間に変形していくのだ。いや、あるべき形に戻っていく、と言った方が正確かもしれない。肉がねじれるように元の場所であろう部分にひとりでに巻きついて、露出していた骨を覆い隠すのが見える。このまま見続けると何かさらに恐ろしいことが起こりそうな気がして、俺はばっと目を逸らした。
「プロデューサー。着替えを」
 北斗はそのことには触れることなくただ淡々と同じセリフを繰り返す。説明するのが面倒だ、とすら思っていそうなほど気だるげな表情が、つい先ほど、一緒に歩いていた時の北斗からは考えられないくらいにあまりにも異質で、俺には受け入れられなかった。
 そのおぞましい光景から目を背けたかったのか、それとも自分も何かしなくてはいけない、と思ったのか、そこでやっと俺の足は動くことを思い出したようだった。
「服……、服だな、分かった。北斗、すぐ戻るからここに居ろ」
「ありがとうございます。待ってますね」
 もうその返事すらも聞きたくなかった。俺はよくわからない焦燥感と北斗に対する紛れもない恐怖に駆られて走り出す。ぼんやりとした明かりの路地裏を抜けて、できる限り人の目に留まらないように小走りで、一番近くのファストファッションの店に向かう。
 店にたどり着くのは案外すぐだった。先ほどまでの非日常的な光景が嘘のように、煌々とあたりを照らす見慣れた店がそこにあって、俺は大きく息を吐いた。震えで力の入らない足を無理矢理動かしてメンズのフロアに向かう。
 北斗のその後のことを考える余裕は無かった……今深く考えてはいけないという直感があったが、それでも白い服を選ぶ気にはなれなかった。目に付いたちょうど良さそうな服を手に取って、それから厚手のタオルも何枚か掴むと足早にレジへと向かう。比較的遅くまで営業している店とはいえ、営業終了間際ということもあってか、レジに並んでいる客はいなかった。店員に怪しまれないように(とは言っても買い物の内容も時間もそこそこに怪しいのはもう仕方のないことなのだが)出来うる限り息を整えて会計を済ませ、来た道を可能な限り急いで戻る。道中の大通り、その曲がり角に鎮座した自動販売機でペットボトルの水を購入して、路地裏に駆け込んだ。