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 ついさっきまでの惨状が夢か何かだったように、北斗は五体満足な状態でそこに立っていた。血みどろでところどころ破けた服だけが先ほどの出来事を確かなものにしているようだったが、視線を下に向けるとそこには北斗を一度は確かに殺しかけた(ように見えた)鉄骨が血に塗れたまま放置されている。
「プロデューサー。お帰りなさい」
 北斗はこちらに気がつくと、うっすら微笑む。口元には先ほどの血の塊がまだこびりついていた。
 俺はその時点でもう考えることを放棄した。理解しようとしてはいけないことなのだと本能が訴えていたからだ。鉄骨が落ちてきたあの時からずっと冷や汗が止まらない。スタジオで俺に笑いかけた北斗の和やかな表情がフラッシュバックして、これ以上思考を働かせないようにと首を振ってそれを霧散させた。
「北斗……これ」
 服の入った袋を軽く掲げると、北斗は「ありがとうございます」とその袋を受け取った。
「あと、タオルも買ってきたから。水で濡らせば……多少は汚れも落ちるだろ」
 既に若干の水滴がつき始めたペットボトルも手渡す。北斗はそれも受け取ると、がさがさと音を立てながらビニール袋に入った服を確認した。
「うん。着れると思います。タオルもありがたく使わせて貰いますね。じゃあ俺、着替えるので」
 そう言うと、北斗はまったくいつも通りに服を着替え始めた。焦りも不安も感じていない、平然とした表情からは、朝起きて自分の家で着替えているような雰囲気すら感じる。実際にはここは路地裏で、あたりのアスファルトは北斗が撒き散らした血で赤黒くぬるりと光っているし、何か内臓のような塊も散乱しているのにも関わらずだ。
 月を覆い続けている雲も、明かりの役割を果たせていない街灯も、そこに集まりきれずにあたりを彷徨っている走光性の羽虫も、路地裏に満ちる静寂も、全てが何事も無かったかのようにそこにあって、俺だけがひどく動揺しているように思えた。いや、実際そうなのだろう。この空間において異質なのは、俺の方なのかもしれない。
 北斗は粛々と着替えを続けている。肌着を脱いで、ペットボトルの水で濡らされたタオルで身体にへばりついた血を落とすと、服の包装を剥いで、そのまま着る。見えた肌には傷跡すら残っていなかった。

 やがて俺の買ってきた服に着替え終わった北斗は、脱いだ服を一纏めにすると、棒立ちになっている俺を一瞥した。そこで急に……何かのスイッチが切り替わったように、あのいつもの笑みを浮かべて「変なことに付き合わせちゃってすみません。また明日」とだけ言って、最後に残った帽子を深めに被って路地裏を去っていった。
 どうやって帰るのだろう、とぼんやりした頭で考えた。俺は北斗の家がどこにあるかはっきりとは記憶していなかったが、タクシーにせよ電車にせよ徒歩にせよ、あの平然とした表情で、何も知らない人の行き交うところを、北斗は歩いたのだろうか。文字通りぐちゃぐちゃになったばかりのその足で、当たり前のように人々に溶け込んで……。
 俺はしばらく呆然としたまま立ち尽くしていた。しかしやがてはっ、と我にかえる。冷たいようにすら感じていた空気がやっといつも通りの時間を刻み始めたように、夏の生温い風が頬を撫でていく。
 その時になってやっとこの路地裏にむせかえるような血の香りが漂っていたことに気がついて、俺は吐きそうになるのをこらえながらのろのろと路地裏を出た。早く家に帰らなくてはならない。何かに突き動かされるようにして歩みを進める。自宅であるアパートがここからほど近く、電車に乗る必要がないと言うのが、不幸中の幸いと言えなくもなかった。
 自宅も、そこに至るまでの道も、当たり前といえば当たり前なのだが何も変わりはなかった。血の気の引いた冷たい手で鍵を開けてドアを開ける。……帰ってこれた。先ほどまでの出来事は一体何だったのだろうか。終わった今になってみると幻覚か何かのようにしか思えなかった。
 しばらく家の玄関に座り込んだまま静止していたが、なんとか立ち上がって、帰宅後のルーティンをこなすことができるようになった。熱いシャワーを浴びると、手の冷えも冷や汗も、あの血の匂いも全て洗い流されて行くようだった。そうしているうちに、多少はいつもの調子を取り戻すことができたように思う。
 最低限のことが終わるやいなやベッドに倒れこむ。今はあのことについて冷静に考える気にはならなかったし、もし試みたところできっと途中で嫌になるか挫折してしまうだろう。精神的疲労のせいか、俺は暖かな布団に吸い込まれるようにして眠りについた。普段通りに身体を受け止めてくれるベッドが、今は心地よくて仕方がなかった。

 ……カーテンの隙間からさす光で目が覚めた。あれから目を覚ますこともなくこんこんと眠り続けていたようだ。カーテンを開けて、窓の外を見ると、雲ひとつない晴天が広がっている。太陽の光がさんさんと辺りを余すことなく照らしていた。
 ……夢だったのだろうか。
 というか、現実的に考えてあんなことが起こりうるはずはない。トースターに突っ込んだ食パンに焦げ目がつくのを待ちながら、俺はやっと頭の中を整理しようと試み始めた。一晩経って冷静になって考えると、昨夜の出来事、と俺の脳が認識している一連の流れは、俺が眠っている間に見た趣味の悪い夢に他ならないとしか思えない。洗濯カゴに脱ぎ散らかされたシャツにもぱっと見た感じ汚れがついている様子は無かったし、そもそもヒトに似て非なるもの、というのは映画や小説の中の存在だ。現実に「居る」なんてことはありえないのだから。
 少し焦げすぎたように思えるパンをもそもそと齧り、いつも通り出勤の支度にかかる。仕事用の鞄に財布、スマートフォン、事務所の鍵が入っていることを確認すると、昨日、鞄から取り出されないまま放置されたスマートフォンは、充電が切れかけていた。慌てて通知を見て、緊急の用がないことを確認する。事務所まではギリギリ保つだろうから、着いてから充電することに決めた。……財布の中は確認できなかった。あの時、つまり北斗の服を買った時、俺はいつもの習慣でレシートを受け取り、財布の中にねじ込んだ。そういう記憶が……もちろん俺はこの記憶を夢の話だと結論づけたのだが、確かにある。もし財布を開いて、昨日の深夜のレシートがあったら。俺はこうして平静を装うことすらできなくなってしまうだろうという確信があった。
 俺は、アイドルのプロデューサーだ。そして、伊集院北斗は俺のプロデュースするアイドルだ。俺は北斗……ひいてはJupiterにトップアイドルになって欲しいと思っているし、そのための努力は惜しまない。これは北斗も同じだろう。昨日のあまりに荒唐無稽な夢のことは、たしかに誰かに打ち明けたい気持ちもあったが、そのせいで今まで築いてきた良い空気感を崩す気にはなれなかった。もちろん、あの惨状を思い出したくないというのも多分にあるのだが。とにかくあのことは周りに話さず、いつも通り全力で仕事をしよう。
 そう決意していつも通りの時刻に事務所に着くと、すでに仕事の時間調整や打ち合わせなどに来たアイドルたちの姿がちらほらとある。彼らに軽くあいさつを交わして、事務作業を始めた頃。普段よりは少し遅く、北斗が事務所のドアを開けた。
「おはようございます、プロデューサー」
「おはよう」と少し挙動不審になったもののあいさつを返すことができた。北斗には俺を特別気にしているような様子は見受けられない。やはり、昨日のことは夢だったのだ。安堵からほっと息をつく。北斗はソファに座って雑誌か何かを楽しそうに読んでいた冬馬と翔太の元に向かって、何かを話している。そのまましばらく談笑したのち、北斗が何か紙袋を持ってこちらに近づいてきた。
「プロデューサー」
「どうした、北斗」
「昨日はありがとうございました。すみません、値段が分からなかったので……もし足りなかったら言ってください」
 北斗は封筒と菓子折りを俺に手渡した。封筒には、持った感じだがおそらく紙幣が何枚か入っている。思考が追いつかないままではあったが、とにかく、と俺が受け取ったのを確認すると、「あのことは、俺とあなただけの秘密ですよ」と囁いて、北斗はデスクを離れていった。
 ……そこで俺は、認めざるを得なかった。本能が止めていた思考回路が、あの出来事は現実だったということを確信してしまった。
 あんなことができてしまう存在を、俺は人間と呼ぶことはできなかった。伊集院北斗は、ヒトではないのだ。

 デスクから見えるソファの方に目を向ける。先日発売された雑誌にでも目を通しているのだろうか、無邪気な笑い声が聞こえた。北斗も「いつも通り」、二人に混ざって笑っている。見ていられなくてすぐにそこから目をそらした。
 二人はこのことを知っているのだろうか。いや、どちらにせよ、俺がそれを確かめることはない。できないだろう。そもそも先程から手の震えが止まらなくて、平静を保とうとして無意識に始めたタイピングもうまくいかないくらいなのだ。いくら現実逃避をしようとしても、デスクの上に置かれた菓子折りが、ただあれは現実にあったことなのだと無機質に俺に突きつけ続けているようだった。
 進まない書類の作成を中断して、テレビや新聞、SNSで検索をかける。何度か検索ワードを変えてくまなく探したが、昨日たしかに路上に撒き散らされていたはずの北斗の血が見つかった様子は全くなかった。事件性がないとされてしまうにはあまりに多い血、異様な状況だったのにも関わらずだ。俺は震える手で検索の履歴を消し、パソコンの電源を落とす。……このことはもう、忘れよう。その方がいい。そう自分に言い聞かせる。
 北斗にも、今まで通りの対応をすることを心がけることに決めた。北斗の方も、先程俺にお礼と称して現金と菓子折りを押し付けた後は、いっそ気味が悪いほどにいつも通りに事務所の仲間と会話し、アイドルとしての仕事をこなしている。実際にJupiterの三人の様子を窺うと、これから外に出る仕事があるのだろう、テーブルの上に出したコップや雑誌を片つけていた。今日Jupiterに入っているのは、確かインタビューだったか。そこまで難しい仕事でもないし、北斗が付いてくれるのだから安心だ……と、そこまで考えたところで、ふと思った。思ってしまった。果たしてこのまま二人を任せてしまっていいのだろうか、と。北斗がヒトでない何かであるのなら、今まで見せた表情は全て嘘かもしれないのだと、そこでようやく気が付いたのだ。
「それじゃプロデューサーさん、行ってくるね!」
 準備を終え、仕事に出かける前の翔太がデスクに座る俺に向かってにっと笑った。冬馬も……北斗も、その後ろで自信に満ちた表情を浮かべている。
 「ああ、いってらっしゃい」とJupiterを見送って、三人が事務所を後にすると、俺は肩を落とす。
 あの時垣間見えた人ならざるものとしての北斗と、人間、そしてアイドルとしての北斗。一体どちらが本当の北斗なのだろう。それとも、どちらも本物なのだろうか。
 いや、それでも、と俺は小さくかぶりを振る。少なくともあの夜まで、俺と北斗、そしてJupiterの間には確かな信頼関係が築かれていた。そのことを否定してはいけない。そしてその関係を崩そうとしているのは、他でもない俺自身なのだ。
 俺には、どうするのが正解なのか、答えを出すことはできなかった。