■ ■ ■


 その日一日を事務作業に費やし、くたびれ切った頭を一晩しっかり睡眠をとって休ませたおかげか、はたまた行き着いた現実があまりにもファンタジーめいていたからか。次の朝出勤する頃には、随分と精神を落ち着かせることができた。
 自分で言うのもなんだが、俺はかなり自分のプロデュースするアイドルに弱い。自分でもどうかと思うほどに甘いのだ。つまり何が言いたいかというと、どうやら俺の中で得体のしれない存在としての伊集院北斗への恐怖よりも、自分がプロデュースするアイドルとしての伊集院北斗への親心(プロデューサー心)、信頼や愛情が勝ってしまったようなのである。アイドルへの愛情でガバガバな俺の頭は、今まで俺たちが築いてきた信頼は、北斗のアイドルの頂を目指す想いは、本物だと信じて疑わなかった。北斗の正体が何であれ、今まで通り人間のフリをしていてくれるのなら、それでいいという気持ちにすらなっている。本人は自らの正体を隠していたいようだし、俺もあのことは見なかったことにしたいと思っているから、このままうまくいつも通りにいることができれば良いのだが。……北斗が実は人間を食べるために人の中に紛れている食人鬼である、とかのヒトではない云々よりもさらにファンタジーな、それでもわりと否定しきれない可能性に目を向けないことを前提とした、穴だらけの甘い考えだ。それでも、いっとうこの仕事、そしてアイドルというものを気に入っている俺は、俺に見せてくれた北斗の気持ちは本物だと信じていたかった。

 北斗の顔色がいつもより悪いことに気がついたのは、あの出来事から三日後、菓子折りを受け取った二日後のことだ。昨日はそもそも顔を合わせる機会がなく、今日はユニット混合の雑誌撮影で、どちらかというと他のユニットの方に気を回していたから、今の今まで気がつかなかった。水分補給をしていた北斗を呼び止め、問いかける。
「北斗、体調でも悪いのか」
「ああ……そうですね。少し」
 北斗はストローの刺さったペットボトルをパイプ椅子に置きながら答えた。心なしか摂っている水分の量も普段より少ないようだ。思っていたより酷いのかもしれないと俺は顔つきを険しくする。
「少しでも体調を崩したら報告しろと言ってあっただろう。今は撮影中だから、すぐに休ませてやるわけにはいかないが……辛くなったら言えよ」
「はい。ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
「お前の大丈夫は信用できないな。無理をするなと言っても聞かないのは分かっているけど、そういうところは北斗、お前の短所でもあるんだから」
「ふふ。……プロデューサーには、敵いませんね。でも本当に大丈夫です。完璧にこなして見せますから」
 笑みを浮かべた北斗は、しかしすぐに何かを思い出したように「ああ、でも……そうだな。プロデューサーに頼みたいことがあるんです」と少し小さな声で囁いた。
「内容にもよるが」
 俺が答えると、北斗はふふ、とおかしげに笑った。
「それもそうですね。じゃあプロデューサー、明日、空いてましたよね。あなたの家に行ってもいいですか?」

 翌日。事務所で俺の仕事が終わるのを待っていた北斗を連れて、自宅までの道のりを歩く。俺の家に事務所のアイドルをあげるのは初めてだ。そこまで広い部屋というわけでもないが、普段から散らかしている訳でもないから、人をあげるのに特に躊躇はしなかった。
 北斗は取り立てていつもより饒舌になるでもなく、寡黙になるでもなく、いつもの心地よい距離感を保ちながら俺についてくる。
「へえ、本当に事務所から近いんですね」
 おじゃまします、と自宅に足を踏みいれ、興味深そうに内装を見物する北斗を連れてリビングに行く。中央に置いてあるローテーブルに北斗を案内して、冷蔵庫に作ってあったアイスティーをグラスに注いで出した。
「それで、話って何だ」
 話を切り出すと、北斗はためらいがちに頷いた。
「はい。プロデューサー、俺の体調が悪いんじゃないかって心配されてましたよね」
「実際顔色が悪かったからな」
「ええ……実は俺、あの時の怪我の影響が残ってるんです」
 ……まさか北斗の方から掘り返されるとは思わなかった。あの時の、というと、つまりあの時のことだろう。俺はそれ以上あのことについて深く考えたくなかったため、無言で続きを促した。
「はっきりした症状が出ているとかそういう類のことではないんです。ただ、怪我を治すときに結構体力を使ってしまって……それ以来、ずっと何となく身体が重くて。だから一つ、お願いをしたいんですが……良いですか?」
「良いも何も……お前、何する気だ」
 嫌な予感がする。一旦話を遮ろうかと思ったが、しかしこの先を聞いてしまわないことには断ることもできないからと、そのまま黙って聞くことにした。
「プロデューサーの血を貰えたらと思うんですが」
 ……北斗は至って普通に申し訳なさそうに言った。普通に申し訳なさそうというのは要するに、一般的な生活を送っている際に感じる申し訳なさの範疇で、ということだ。もっと言えば、この男はどうやら俺に血液を流させることに対して、普通の人間より罪悪感が希薄であるらしい。いや、北斗が普通の人間でないことは確かなのだが。
「は」
 思わず口があんぐりと開いてしまう。血。なぜ血なのか……というのは置いておくにしろ、だ。ここは俺の部屋なので断言できるが、血を採取できるような器具はない。そのことを指摘すると北斗は「安心してください。用意してありますから」と鞄から何かを取り出す。見るとそれはおそらく適切に持ち運ばれて来たのであろう注射器やチューブ、駆血帯などであった。……一体どのようにして入手したのだろうか。問い詰めたい気持ちに駆られたが、恐ろしい答えが返ってきそうでやめた。代わりにできるだけ嫌味な言い方で「冗談か?」と返す。
「嫌だなあ。冗談なんかじゃないですよ。これはプロデューサーにしか頼めないんです」
 北斗はそんな俺のささやかな反抗など屁とも思わないらしい。さらりと流されてしまった。
「輸血パックとか手に入らないのか?」
「流石にそんなツテはないですよ。医者の知り合いは……桜庭さんを含めなくても数人いますが、そんなこと頼んだら、真っ先に何に使うんだって問い詰められるでしょうね」
 その言い草からするとやはり自らが人間でないのは隠していたいらしい。それにしては俺に対しての態度があまりにも、といった感じだが。
 豹変と言ってもいいほどの会話の方向転換についていけないまま、俺が逃げ場をなくしたのを見てとると、北斗は「そういう訳なんですが、プロデューサー。ダメですか?」と追い討ちをかけた。……確実に、俺がアイドルからの押しに弱いのを理解している。過去の自分の言動、アイドルにばかみたいに甘い自分を後悔したくなった。黙りこくる俺に「決まりですね」と機嫌よく北斗が言い渡す。デートの約束を取り付けたかのような口調だが、俺にとっては刑の執行宣告に他ならないのをこいつは理解しているんだろうか。
「ええと……確か献血なら四百ミリくらいでしたよね?」
「……いや、で、できれば最小限で頼む……」
 なんでそんなフルに採る気満々なのだろうか。お前の良いところは人の感情の機微に良く気がつくところではなかったのか。この調子だと認識を改めなければならないかもしれない。背中に伝う冷や汗を感じながら、俺は表情をこわばらせた。
 
 北斗が鍋に消毒用の熱湯を沸かしている間に、食器棚から普段使わないカップを取り出す。今からここに俺の血液が入るわけだ。既にかなりげんなりしてきたが、一度言っておいてやっぱり無しと言うわけには……俺のプライド的に、そして俺のあまりにもアイドルに甘い性質的にもいかないので、「これでいいか?」と隣の北斗にカップを手渡す。北斗は「ええ。プロデューサーが良いのであれば、俺はなんでも」と微笑んだ。
 沸いた湯に、北斗は針とチューブとカップを放り込んだ。「プロデューサーは座っていてください」と言われたので、俺は素直にキッチンを出てリビングのソファに腰掛ける。そのまま五分ほど落ち着かない時間が流れたあと、煮沸消毒をしたカップと諸々の道具を持った北斗がリビングに戻って来た。気分は処刑前の罪人である。この例えが精神的ではなく肉体的な苦痛を伴うものに使われるのも中々レアだろうな、と明後日の方向に思考を働かせながら、そうならないように北斗が痛みなくことを済ませてくれることを祈る。指示に従ってソファの肘掛けに腕を伸ばすと、「失礼します」と肘のあたりに駆血帯が巻かれた。血液の巡りが滞る感覚がする。北斗がやけに手慣れている様子なのはもう気にしないことにした。消毒用のアルコールが乾いたのを確認すると、北斗は先ほど消毒していたチューブにつながった針を手にした。
「じゃあ、いきますね。気分が悪くなったら教えてください」
 返事をする気力もなくただ小さく頷く。北斗はそれを確認すると、俺の腕を抑え、ためらいなく針を刺した。ちくり、と少しだけ痛みを感じたが、特に失敗したような感じはない。ほっとしながらソファの横のローテーブルに置かれたカップを見ていると、ぽたりと血液が垂れてきた。あとはこのまま、北斗の満足いく量がたまるまで待つだけだ。
 沈黙が流れる。動くわけにもいかないためすることがなく、何とは無しに「直接吸わないんだな」と北斗に話しかけると、「さすがにそれは……、衛生面というか、なんか嫌じゃないですか?」と返された。いや、そう言う問題ではないと思うのだが。衛生面を気にしてくれるのは結構だが、そもそもの話として、唐突に知り合いの血液を採取し始めている男に怪訝な顔で見られると言うのはなかなかに複雑な心境だ。
 ところで、例えば吸血鬼が美少女の血を吸う場面など、創作上の……人外のものが人の血を摂取する、俗っぽい言い方をするといわゆる吸血シーンだが、そういった場面はしばしば官能的な響きを持つ。それこそ首筋に顔を埋めてガブリ、といっているのにも関わらず、美少女の方も特に苦痛を感じている様子ではなかったりとか、そういう感じの描写が多い。概ね吸血行為というのは背徳的、衝動的な行為であるのではないか……というのは、まあ少女漫画をろくに読んだこともない男の感想なので、気にしなくても良い。俺が言いたいのは、なんともロマンのない状況に置かれてしまったなあ、ということだ。俺の知識不足なだけかもれないが、それにしても注射器でヒロインの血を採取し始める部類の吸血シーンはかなり珍しいのではないだろうか。
 などとバカなことを考えていると、北斗が駆血帯を外した。「針抜いたら血が止まるまで傷口をこれで抑えていてくださいね」とアルコールが浸された脱脂綿が手渡され、針が抜かれる。傷口を圧迫している俺をよそに、北斗はカップにたまった血液を確認していた。
「うん。これくらいでなんとかなるかな。ありがとうございます、プロデューサー」
北斗はにこやかに俺に笑いかけると、いただきます、とカップに溜まった血液を飲み干した。
「ふふ、ごちそうさまでした。プロデューサーの血、とっても美味しかったですよ」
「……そうか。なら、良いんだが……」
「はい。プロデューサーのおかげで俺、明日から頑張れそうです」
 美味しい、という形容を自らの血液にされてしまったことにかなりの動揺を覚えながら、嬉しそうに微笑む北斗を複雑な気持ちで見守る。カップは誰が洗うのだろうか。北斗がそこまで気を回してくれることを祈るばかりである。いや、北斗ならこんな不安など持つ間も無く気を回してしまうのが常であったはずなのだが。今まで円滑に回っていた関係が決定的にどこか狂ってしまったのを感じながら、一つ大きなため息をついた。