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天気の良い水曜日だった。しばらくたて続けに入っていた仕事も今日は無い。つまりは久しぶりの休みである。仕事を頑張って乗り切れたのだから、今日くらいはのんびりしていてもバチは当たらないだろう、と自宅のリビングでだらける体勢に入りかけた俺を、スマートフォンから鳴り響く着信音が引き止めた。
画面を見ると伊集院北斗と表示されている。……正直に言ってしまえば、出たくない。これまでの一連の出来事で確信したが、北斗の感性は人間のそれと確実にズレている。この電話だって、仕事の連絡であれば良いものの、それと関係ない北斗の個人的なものだったらほぼ間違いなく面倒ごとに巻き込まれるのだろう。先日の採血事件のことを思うと、楽観的な思考にはなれなかった。
しかし悲しいかな、俺はどこまでもプロデューサーだった。俺にとっても、世間にとっても、伊集院北斗はこれ以上ないほど素晴らしいアイドルである。仮にこの電話に出て酷い目にあったとしても、そんな北斗の連絡を無視できるほど、俺は普通の人間ではなかった。
「……もしもし」
画面をタップして、スマートフォンを耳に当てる。電話の向こうからは何かに焦っているような荒い息遣いが聞こえた。ただならぬ雰囲気に、ごくりと唾を飲む。
息がマイクに当たったのか、ザザ、と音声にノイズが入った。北斗は……少なくとも俺からは、ともすれば泣いてしまいそうな子供のような声で、俺に言った。
「プロデューサー。俺……、人を殺してしまいました」
北斗が震える声で伝えてきた場所に車で向かう。ハンドルを握っている手に北斗の泣きそうな声が耳にへばりついて、いっそ俺の方が泣きたいほどだった。どうしてこんなことになっているのだろう。俺はただ、いつも通りアイドルをプロデュースする、充実した日々を過ごしていたいだけなのに。
カーナビにしたがってしばらく車を走らせる。道中にホームセンターの看板を認め、大きめのスコップを二つ購入した。いつも出勤する時のスーツではなく、普段着を着てきたのでまだマシと言えなくもないが、平日の昼間ということもあって怪しさとしては先日のファストファッション店の比にならない。できるだけ怪しまれないように堂々とした態度を心がけて、普段持たないからか、それとも用途を意識してしまっているからか。ずっしり重く感じるスコップを携えて車に戻った。
その場所まで何分くらいかかったのかは全く覚えていない。数分だったのかも知れないし、数十分かかっていたかも知れない。とにかく、俺の到着した場所は山であった。ここに、北斗がいて、北斗の殺した人間の死体が「ある」。ずしりと重い感情に引きずられるようにうまく動かない手足を無理やり動かして、車を出て山に足を踏み入れる。看板やフェンスの表記を見るに、どう考えても私有地であるはずなのだが、北斗は気にしていないのだろうか。いや、人が死んでいる時点でそれどころではないのかもしれないが。……変なところに思考が飛んでしまった。どうやら俺の思考回路はここしばらくの間に随分と現実逃避が上手くなったようだ。
ざく、と葉や小枝を踏みしめながら足を進める。そのまま少し入ったところ、山がその鬱蒼とした面持ちをあらわにし始めたあたりに、北斗は立っていた。
「プロデューサー」
来てくれたんですね、と北斗は泣きそうに笑う。来てくれなかったら、どうしようかと思いました。と、おそらくいつものように飄々と話そうとしたのだろうが、震える声を隠せていない。本人もそれを自覚したようで、それ以上は話そうとしなかった。
北斗に案内されるまま木々の間を縫って進む。手入れが行き届いていないのか、道らしい道すらない森の中、異様な空気を纏った二人が無言で歩いている。きっと他の誰かが俺たちを見ていたら一発で警察に通報されるだろうな、と考えて、その思考が洒落にならないことを思い出した。実際に今俺の隣を歩いている男は人を殺していて、俺たちの進む先には人間の死体があるのだ。
坂道が少し落ち着いてきたところで、北斗が足を止める。
そばにはどす黒く変色した血でまみれた大きな塊があった。……人の死体だ。確認できる範囲の服や体格から察するに、若い女だろう。あまり長い間直視できるような状態ではなかったが、手足が曲がってはいけない方向に曲がっているのはすぐに見て取れた。思わず後ずさると、踏みしめた小枝がぱきりと乾いた音を立てて折れる。
「北斗……」
「どうしてこんなことしたんだ」と呆然と呟くと、北斗は僅かに顔をこわばらせた。
「ちが、違うんです、プロデューサー……この人は、ほんとうに、事故で……」
動揺する北斗に、子供みたいだ、と頭の中の冷静な俺が呟いた。俺は……あれだけ北斗に甘かったはずの俺は、今になってどうしても北斗のことを信じることが出来ずにいた。
「本当なんです、プロデューサー……俺、あなたにだけは勘違いされたくない」
北斗はこちらに必死になって訴える。俺は、その様子をどこか遠いところから眺めながら、どうしてこうなってしまったのだろうと、あの時から何度も繰り返した意味のない問いをまた投げかけた。何がいけなかったのだろう。俺がもっと、北斗のことを見てあげていたら、こんなことにはならなかったのだろうか。
いずれにせよ俺はもう耐えられなかった。確かに脆弱でこそないが決して強靭なわけでもない俺の精神は、もうずっと前から悲鳴を上げ続けていた。それが今、限界を迎えた。ただそれだけの話だ。
「もうやめてくれ」
大声が出てしまった気がしたが、実際は俺の喉からは悲痛に震えた情けなく小さなうめき声のようなものが漏れただけだった。北斗はそんな俺を、泣きそうな瞳で見つめている。そんな眼で見ないでくれ、と叫びたかったが、喉がつまってしまって声にならない。ひきつるように息を吸い込んで、「たのむから……」と震える声で吐く。
北斗は口を開き、何か言おうとしたように見えたが、その口から言葉が発せられることはなかった。
「北斗……俺は、アイドルのお前が大好きだよ。お前たちならトップアイドルになれるって思ってる。だけど、お前のこういうところを見るたびに、分からなくなってしまうから」
北斗は瞳を揺らがせながら無言でこちらを見ている。少し怯えたような表情に、言いながら声がみっともなく震えた。殺しきれなかった嗚咽が漏れて、そこで俺は自分が泣いていることに気が付いた。この歳になって、年下の男を前に情けなくしゃくり上げている事実は確かに俺のプライドを傷つけたが、それよりも目の前で起こっている、自分を含めたあらゆることへの失望に近い気持ちの方が大きかった。
「少し前なら、北斗はわざと人を殺したりなんかしないって言えたのに。今は……分からないんだ。北斗、俺は……お前のことが分からない」
やるせなさに支配されながら、途切れ途切れにそう言うと、北斗はいよいよ顔色を青白くしたように見えた。悲しみとも怒りともつかない表情は、先ほどから露出しているある種の幼稚さを一層際立たせている。
「ちが……」と、北斗がやっとわずかに声を発した。
「違うんです、プロデューサー!」
びくりと肩を震わせて北斗の方を見る。目の前の男は思いの外大きな声が出てしまったことに自分で驚いたようで、声を潜めて続けた。
「俺の事、信じてください……」
透き通ったアイスブルーがこちらを捉えた。濡れた瞳がきらきらと瞬いている。北斗のこんな表情を見るのは初めてで、俺は状況を忘れてたじろいでしまった。
「北斗……」
「プロデューサー、俺は……たしかに、みんなのことを騙しています。今、俺の本当のことを知っているのは、あなただけで……でも、それだけです。プロデューサー、俺っ、」
露骨にうろたえている、というか、もはや怖がっていると言ってもいい。何にかと言えば……それは、多分俺に、だ。俺が北斗に怯えていることに、北斗は怯えているのだ。北斗の悲痛で純真な表情を見ていると……俺が北斗を信じられていないということに、北斗はここまでの動揺を示すのかと、なんだかたまらなくなってしまった。
「分かった。分かったよ。……そうだよな。ごめん、北斗」
できるだけ優しい声を心がけてそう言うと、北斗はぱっと顔をあげた。金色のまつげが涙に濡れて光を反射している。
「お前はずっと、お前のままだったんだよな。俺が信じられなくなってしまっただけで……」
泣いたせいできっと酷い顔をしていただろうが、そうしなければならないと思ったから、北斗を真っ直ぐ見据えた。
「お前のこと、信じるよ」
北斗は、頬に一筋涙を伝わせながら、心から嬉しそうにくしゃりと笑った。
……それにしても、山に穴を掘る、それも死体を埋めるために……という経験を、まさか自分がするとは思っていなかった。初めからこうして死体を山に隠したことから鑑みるに、北斗に救急車を呼ぶという発想はなかったらしい。しかしそれがおそらく保身などのためではなく、「死んでしまったのだから仕方ないだろう」とかそういう考えのもと起こったことだろうというのが、今となってはなんとなく分かるようになってしまった。もちろん、意図せず殺人を犯してしまい、多少なりとも混乱していたというのもあるだろうが。
視線を後ろにやって女の死体を見る。「それ」は何も言わずただそこにあった。北斗はそんな「彼女」には目もくれない。少し前まではたしかに北斗にとってのエンジェルちゃんであった肉の塊は、もはや彼にはそうは映っていないようだった。
北斗はヒトよりも力が強く、一回あたりに掘れる土の量はたしかに常人とは比較にならないほどではあったが、体力が無尽蔵にあるわけではない。この状況で何もしないでぼうっとしているのが嫌だったので、なるべく早く穴を掘り終えるために……という名目のもと、俺は北斗を手伝うことにした。
獣や人に掘り返されないように深く、深く、土を掘る。北斗も俺も何も言わなかった。蝶々が掘り返した土と穴の周りに寄ってくる。暑い夏に土を掘ると蝶々が土の中の水分を求めて寄ってくるのだ、と昔図鑑か何かで目にした覚えがあったから、それだろうなとスコップを土に突き立てながら考えた。
暑い。夏にろくな日よけもせずにこんな重労働をしているのだから当たり前だが、かなりの暑さだ。木々の葉に多少は遮られてはいるものの、容赦のない夏の日差しがじりじりと俺を焼く。北斗を見ると……実のところ俺はそれを少し意外に思ったのだが、だらだらと汗を流している。ヒトじゃないんだから汗をかく必要もないんじゃないか、と一瞬思ったが、思い返してみればレッスンの時もライブの時も、北斗は当たり前のように汗を流していた。おかしな話だ。どうしてもこういう状況下で垣間見る北斗と普段の北斗が乖離してしまう。紛れもなく同一人物であることは、もう分かっているはずなのに。
むしろ、北斗は普段あれほど人間らしく過ごせるのに、なぜ俺に対してはこうなのだろうか……。北斗は、初めてできた「自分の正体を知っている親しい人間」に、自分のヒトでない部分を見せたくて仕方がないようにすら見える。
「北斗……」
「……はい、どうしましたか、プロデューサー」
北斗は流れる汗もそのままにこちらに振り返った。頬は何かの拍子に付いたのであろう土で少し汚れて、暑さと汗で前髪が数束降りてきている。
お前の正体を知った人間は俺以外にいたのか、と尋ねようとして、そこで俺は北斗が結局一体何者で、どこから来て、どれくらい生きて、何がしたいのか、全く分からないのだということに気がついた。
「いや……何でもない。悪い、忘れてくれ」と首を振ると、北斗は「そうですか?」と不思議そうに首をわずかに傾げ、しかし何も言わずにまたスコップを持ち上げる。
「ねえ、プロデューサー。……俺は、あなたのことを信頼しているんです」
こちらと視線を合わせずに、北斗は言った。
「だから、あなたには俺のことを知っていてほしい」
俺はそこで初めて理解した。パズルのピースがはまるように、目の前が明るく開けていくように、思考が整理されていく。つまり、あの時服を買いに行くよう俺に頼んできたことも、俺の血を飲んだことも、こうして死体を埋めるための穴を一緒に掘っていることも、北斗にとっては信頼の現れに他ならないのだ。
この一連の猟奇的な「お願い」は、北斗にとっては自分の本当の姿を知って欲しいという動機に基づいた、至って健康的な「甘え」なのだ。……そのことによって俺の精神的安定が損なわれることに、どうやら全く思い当たっていないようなのが、ことをややこしくしていたのだが。
「ああ……知ってる」
と、それだけ返すと、北斗も別に会話を求めていたわけではなかったのだろう、会話は途切れた。蝶々だけがふわふわ、ひらひらと穴の周辺を飛び交っている。土を掘り返す音と、スコップが時折硬いものに当たる音。スコップをふるいながらそれらの音をぼんやりと聞いているうちに、憐憫にも似た気持ちが俺の胸に去来した。伊集院北斗はヒトにこんなに似ていて、俺に信頼を裏切られたら涙を流すのに、どうしてもヒトではない。なれないのだ。そのことが……それに今まで散々振り回されて来たと言うのに、それを思い知らされて辛い思いをしたというのに、何故だか哀しくて仕方がなかった。