9-14
「お前は一体、何を考えているんだ!!」
屋敷の主は帰宅するなり、風呂上がりの我が子が傷の手当てを受けているのを見て妻を怒鳴りつけた。
「私の不注意です。申し訳ありません。」
「傷が残って!!嫁ぐ障りにでもなったらどうするつもりだ!!」
初めて見る、激昂する父親の姿。
腕に包帯を巻かれながら、ウイは声を上げて泣き出した。
怒鳴り声に対する恐怖、驚き。
それとも、制止も聞かずに怪我を負った自分のせいで
大好きな母親が怒鳴られていることに責任を感じたのだろうか。
ウイの泣き声だけが響き渡る豪邸で
険しい顔を浮かべる男と、申し訳なさそうな顔を浮かべる女の、視線は交わったままだ。
「どれだけ私が努力したところで……。跡取りなき今、ウイの嫁ぎ先に賭けるしか我が家のは繁栄はないんだ。」
「……気を付けますわ。」
父親は、焦っていた。
妻が男の子を、跡継ぎを身籠らないことに。
それに加えて
家族を守る為の地位や財力をつけようと努めても、その努力は実を結ばない。
自分より若い貴族の子息が着々とその地位を上げていく中で
向上するどころか、維持することで精一杯。
妻と娘が幸せであれば良い。
その思いはいつしか
自分の地位を追い抜いて行く若者達への羨望
地位に応じた財力で優雅に暮らすその者達への嫉妬へと変わり
地位や財力への、度を越えた執着を男の心に植え付けた。
自分がそれを手にいれる為には、妻が跡取りを産むか、娘が王族や有力な貴族へと嫁ぐ意外に方法はない。
いつまで経っても身籠らない妻。
自分が身を削る思いで社交の場で奮闘しているというのに
家の中で何の不安やプレッシャーも感じずに過ごしながら、大切な娘をより有益な淑女として育てることさえできない。
「そう言えば、ウイを商人の子供たちと一緒に遊ばせているようじゃないか。」
「え、ええ。とても良い子達で、ウイも喜んでおりますわ。」
商人ごときの子供から、大事な娘が何か悪い影響でも受けたらどうするつもりなのか。
「ウイの育て方に関しては、私が管理しよう。お前に任せておいては取り返しのつかないことになる。」
目を見開き固まっている妻をその場に残し、まだ泣き喚く我が子の手を引いて
男はリビングから姿を消した。
「ウイ、父様のことが好きかい?」
「っく……。」
ウイは腕を引かれるがままに連れてこられた自分の部屋で、しゃくりを上げながら父の言葉に頷いた。
「私もウイが大好きだ。」
「……怒ってない?」
まだ背丈も低いウイに目線を合わせるように、しゃがみこみ頭を撫でる父親の姿は
いつもの“優しい大好きな父様”だった。
「私はウイが大切だから、一生何不自由なく暮らして欲しい。お前の幸せを願って厳しくする私を、嫌いになってしまうか?」
優しい眼差し。
頭を撫でる暖かい手。
ウイは首をふるふると横に振り、目元の涙を拭った。
「良い子だ。今日はもう寝なさい。」
「うん!おやすみなさい!」
まだ幼いウイは、父親の言う言葉の内容など正確に理解できていなかった。
恐ろしく変貌した父親が、いつもの大好きな優しい父親に戻り、自分を好きだと言ってくれる。
言う通りにすれば、父様は怒らない。
そうすれば母様も、怒鳴られない。
ウイが促されるままにベッドに入ると
父親は布団を掛け直し、我が子の額にキスを落として部屋を後にした。
扉を閉めた父親の瞳には
深くて暗い闇が、蠢いていた。
それから、ウイの生活は激変した。
部屋の扉と窓には、内側からは開けられない施錠が施された。
母親との面会時間は日に数分。
お花や紅茶、ダンスやチェス、貴族の娘として必要な嗜みを身につける為、様々な分野の第一人者がウイの部屋を訪れた。
最初の頃、部屋に閉じ込めている娘を不憫に思い
父親はウイの部屋を頻繁に訪れた。
部屋で一人時間をもて余しているウイは、沢山の本を読んだ。
ウイは部屋を訪れる父親に、読んだ本の分からない所を質問した。
しかしこの行為が、父親の劣等感を擽ってしまった。
有り余る時間で多くの知識を得たウイの質問は、日に日に高度になり
父親が答えられない程専門的なレベルにまで及んだ。
ウイはただ、気になっただけ。
しかし父親は、自分の分からない知識を話す娘に嫌悪感を抱いた。
下手に知恵のある理屈っぽい女は、良い妻にはなり得ないだろう。
その日以降、ウイの部屋から本が消えた。
「母様、なんで私はお外に出ちゃいけないの?」
「ごめんね。ウイはお外が好き?」
開くことのない窓から庭を見下ろし、悲しげな表情を浮かべる我が子に、母親は胸を痛めた。
「お外好き!花壇にお花も見に行きたいし、探検したい!あと皆と遊びたいな。」
かけっことか、お店屋さんごっことか
指を折りながら、年相応な欲求を数えるウイ。
それを叶えてあげられないことは、母親にとって何よりも辛い。
夫の言うことを聞き入れる自分は、果たして本当に正しいのだろうか。
「ウイ、父様には内緒。お外に遊びに行きましょうか。」
「本当!?」
久しぶりに見た娘の心からの笑顔に、母親もつられて笑みを作った。
夫は外出中。
少しだけ連れ出すくらいなら、気づかれない。
それから、親子は庭を散策して歩いた。
蕾が開くのを待ちわびていた、あの薔薇の季節は過ぎており
花壇にはコスモスの花が揺れていた。
庭の隅々まで見て回り、時には駆け出し、時にはしゃがみこんで虫を眺め
ひと刻程の久しぶりの外の世界を、ウイは存分に楽しんだ。
短い時間ではあったものの、普段より長く過ごせる母親との時間を。
見慣れた室内とは違う空間を。
「またお外に連れてきてくれる?」
「ええ。父様には内緒よ?」
いたずらでもほのめかすように、母親は笑みを浮かべた。
こっそりね!と、娘も笑った。
「母様、ほっぺどうしたの?」
「……転んじゃったの。母様ドジね。」
翌日部屋を訪れた母親の頬には、広範囲にガーゼが当てられていた。
力なく笑うその顔に、ウイはその怪我の原因が何であるかを悟ってしまった。
「昨日のお散歩、父様に怒られちゃったの?!」
「違うのよウイ。本当に、転んじゃったの。」
ガーゼの端から垣間見える頬は、鬱血していた。
「私が行きたいって言ったの!!母様は悪くないよ!なんで母様が叩かれるの!?」
「ウイ。……どうしちゃったの?母様は誰にも叩かれてなんてないわ。またお外、行きましょうね。」
それ以来
ウイは外に出たいと口にすることはなかった。
母親に誘われても、何かしら理由をつけてはそれを断った。
メイド達も、何か粗相があってはいけないと
ウイの身の周りの世話をする時には余計な発言をしないよう気を付けるようになっていた。
何も気を紛らわすもののない部屋で、習い事意外の時間をただ過ごすウイ。
徐々に表情が暗くなっていく娘に、流石に罪悪感を抱いたのか
そんな娘の姿から目を反らすように、父親はウイの部屋を訪れなくなった。
退屈で、窮屈で、ただ来るべき時のために生かされているウイ。
周りの身を案じ
誰にも本当の気持ちを打ち明けず、不満も漏らさずに居る、まだ幼い少女。
そんな生活が始まって一年余り、母親は決意を固めた。
ウイを連れて、屋敷を出よう。
実家や使用人達に迷惑をかけてしまうかもしれない。
それでも、これ以上はもう見ていられなかった。
「ウイ、お話があるの。」
「なに?」
顔をこちらに向ける我が子は、こんなに無機質な、人形のような表情をする子供だっただろうか。
「絶対に、私があなたを幸せにしてあげるわ。」
「……母様?」
反応の薄いウイを抱きしめ、母親はその頭を優しく撫でた。
「何かを望むことを、諦めては駄目。」
顔をあげたウイに向けられる笑顔。
せめて笑えなくても、この子が笑顔を忘れないように。
色々なものを犠牲にしてでも貫いてきた、笑顔を絶やさないという信念を最後まで守りきる為に。
この子にはまだ、言えない。
思い立ったからと言って、すぐに飛び出して逃げ切れる程、簡単なことではないだろう。
この国に居れば見つかってしまう。
少しでも遠くに、逃げなければ。
この日から、母親はウイを連れ出して二人で生きていく為の準備を秘密裏に始めた。
誰にも気付かれぬように、慎重に。
不測の事態等起き得ないように、入念に。
船の手配。
当面の生活費の確保。
実家への根回しと、信用できる使用人の選別。
その作戦の準備は、思った以上に時間のかかるものだった。
父親がウイの部屋を訪れなくなって少し経った頃、屋敷に一人の女が出入りするようになっていた。
その女の名はアイリーン。
夜の店で体を売る女。
外では出世の為と神経をすり減らし、理解のない妻と生気のない顔を浮かべる娘の待つ家庭。
居場所のない男は、安らぎを求めた。
アイリーンは、男の良き理解者となった。
公務に勤しむ男を労り
ついて来ない結果には周りの見る目がないと男を肯定し
理解のない妻を蔑み
娘の状態に関しても、まだ幼いから理解できていないだけと、男の教育方針を支持した。
そして男に、愛の言葉を囁いた。
誰にも認められずにいた男にとって
アイリーンだけが唯一の理解者で、安らげる場所だった。
妻が夫の行いに口を出さないのを良いことに、アイリーンは屋敷にも頻繁に出入りするようになった。
そんな様子を目の当たりにしながらも、妻は何も言わなかった。
夫への異姓としての愛情は、とうの昔になくなっていて
教育や地位への価値観は到底理解できるものではない。
それでも
長年連れ添った夫は、家族。
公務に力を入れるようになったのも
元はと言えば家族を守る為であったことも知っている。
それに
一度は出会いを運命と感じるほど、心から愛した相手。
彼の望みは叶えてあげられない。
傍に居ることも、望み通りの妻であることもできない。
ならばそのくらい、目を瞑りましょう。
彼女は我が物顔で屋敷の中を歩く愛人に背を向け、そっとため息をついた。