13-26
飯を食い終えて、空になった皿を食堂に下げに向かった。
食堂に近付くにつれて聞こえてくるいくつもの鼾が重なり合った轟音。
扉を挟むことで幾分かマシになっていたそれは
防音壁を取り払った途端、直接鼓膜に襲い掛かって来た。
よくもまぁこんな煩ぇとこで寝れるもんだ。
ゲームの途中で寝落ちしたことが伺えるクルー達の大音量の鼾に思わず眉根が寄る。
流しに食器を置いて
この騒音を撒き散らす男達に視線を配った。
“PENGUIN”
机に突っ伏して眠る男の頭に乗った、誰かのトレードマークの帽子。
相変わらず不快でしかない大音量の鼾の中、僅かに自分の口端がつり上がる。
足早に食堂から出て、足が向かうのは甲板へと続く扉の方向。
何を話すのか、正直まだ纏まってはいない。
そもそもウイの怒りがまだおさまっていないかもしれない。
どっちが悪いかの話以前に
ウイは俺の顔を見たくねぇかもしれねぇ。
でも話さなきゃいけねぇと思った。
誰も邪魔が入らない今なら
幾分か冷静になった今なら、ちゃんと謝れる気がした。
言い方が悪かった
心配かけるような事はもうするな
…昨日のアレは、俺が悪かった
それが今なら、言える気がした。
重い扉を開くともう外の空気は朝方のそれで
まだ闇色の濃い空も、深夜の濃紺よりは白んで来ている。
船同士を繋ぐ渡し板、そこを一歩一歩進みながら
視線が向くのは明かりの溢れる大型船の船室。
昼寝のし過ぎで目が覚めたんだろうとは思うものの
ウイは今この中で何をしているんだろうか。
らしくもなく僅かに緊張している気のする内心を隠すように
早足に床板を蹴った。
バサッ
穏やかな明け方の海に突然吹いた強い風。
それを受けたマストにくくりつけられた旗が、やたらと大きな音を立ててその身を風に揺らす。
羽のモチーフのそれはもう見慣れたもの。
どこから飛んできたのか
旗の前を横切った1枚の葉が、暁風に乗ってひらひらと宙を舞っていた。
無意識に目が追うその葉が舞い降りた先には、会いに来た目的の人物。
船縁に肘を付いて立ったまま寝ているらしいその小さな背中に、ふっと鼻から抜けたため息。
そこには呆れだけじゃねぇ何かが、籠っていた。
「おい、風邪引くぞ」
船縁に寄りかかるように頬杖を着いているその後ろ姿からは、予想通りというか返事がない。
脇に置かれたシードルの瓶は底の方にまだ僅かに中身が残っていて
穏やかな波に呼応するようにゆらゆらとその液面を揺らしていた。
船縁の高さは、丁度こうしているのに程よい高さなんだろう。
なんとも器用に寝てる。
いくら酒を飲んでいようと
それが楽な体勢だろうと
急に眠気が襲ってきたとしても
立ったまま外で寝ねぇからな、普通。
呆れと共に再び口から漏れたため息は、折角話そうと思っていた事の出鼻を挫かれたにしては重くない。
「っとに…」
いつからこうしていたかは知らねぇが
少し冷えている気のする体を抱き抱えて船室の扉を開けた。
一瞬眉を寄せて顔をしかめた寝顔は、すぐにまた眠りを貪り出す。
短くなった髪が目にかかるのを払ってやれば、擽ったそうに身動ぐそんな仕草にどこかほっと安心に近い気分を感じた。
柔らかくてウイの匂いを存分に宿した長い髪が好きだった。
手触りの良いそれを撫でる度に嬉しそうに頬を緩めるのを、見てるのが好きだった。
でも短いのも悪くない。
いや、結構中々似合ってる。
…なんで急に髪なんて切ったのかは知らねぇが。
2年前は毎日昇り降りしていた階段の段差に足をかけて、昨夜の言い争いより前から気になっていた事を思った。
火拳屋の死
らしくない落ち込み方
泣き喚いては暴れる
それでいて、俺らの前では取り繕ったあの顔
そこに加えて
短く切った髪。
目を合わせねぇ
避けられてる
あれからのウイはどこかが確実におかしい。
何がどういう風にとは明確に言えねぇが、前はこうではなかった。
元、自分の部屋の向かいの部屋。
ウイの部屋の扉を開ければ、そこからは自分の好きなあの香り。
変わらない部屋の中の空気にほっとする気持ちと
腕のなかで眠る存在が、髪形以外でもどこかが変わってしまったかのように感じる嫌な胸騒ぎ。
この気分の名前は何というんだろうか。
不安?
焦燥?
…よくわからねぇ。
眠っているウイを部屋に運ぶのは、もう何度目だろう。
好きな女が無防備に寝ていて
他に誰も邪魔が入らなくて。
自分の問題に蹴りを付けるまで手は出さねぇと決めてはいても
こんなシチュエーションには毎度のことながら胸の奥で何かが騒ぐ。
思い留まりこそすれど、だからといってさっさと寝かせて部屋を出るのもどこか勿体ない。
ただ目的もなくこうしていても重くはない。
寧ろ軽すぎる。
それに今は
昨夜のアレとどこか様子がおかしいこいつのせいで
意識のある時には触れていられる状況を作るのは至難の技。
横抱きに抱えていた体を抱き締めてその柔らかさを噛み締めた。
会いたかった
こうして抱きしめたかった
抱きしめ返してくる事もない
照れる訳でも、喜ぶ訳でも、困った表情を浮かべる訳でもない。
でも今腕の中に居るのはウイで
息をして心臓の鼓動が全身に血液を送り出している
生きてここに居る。
それは変わらない事実。
ふと目に止まったコルクボード。
そこには俺の手配書と火拳屋のそれ。
ピンで止められたブラーヴェの連中のビブルカードの並びに
何もとまっていない一本のピン。
並び順なんて覚えてねぇ。
ご丁寧に持ち主の名前を記してあるそれを読み上げて確認した訳でもねぇ。
でも
このピンがとめていたカードが誰のものだったのか
それが一瞬でわかってしまった。
作業机の脇の棚に収まる、見覚えのない荷物。
それは所々が焼け焦げてくたびれてはいるものの、どこか大切にされているかのようにその場に居座っていた。
その無言の主張と火の痕跡に何かが燻る。
明確な根拠のない嫌な予感が、胸の奥でまた大きくなった。
なぁ、おまえ…
心の中でだとしても
言葉として口に出さなくても
最悪のパターンであるそれの続きを思うことですら憚られた。
人の気なんて知らずにすやすや寝息を立てるウイの顔は
数週間前この場所で、もじもじと顔を赤らめながら自分の期待する言葉を告げようとしたそれと何ら変わらない筈なのに。
腕の中にいるウイが
触れていられる距離にいる筈が
中身がどこかへ行ってしまったんじゃねぇかと思うほど、どこか遠く感じた。
…まだ確定じゃねぇ。
まずは昨日のアレをなんとかしねぇと。
話したくても
謝りたくても
当の本人がこれじゃ拉致があかねぇ。
靄を払うように踵を返した。
このコルクボードは良くない感情を増幅させる。
いつの間にか温かくなっていたその体はベッドに寝かせた。
ここで立ち去っては何の解決にもならない。
窓の外の、まだ暗い雲間を赤く染める朝焼けは
自分の心境を空が写し取っているかのようだ。
強すぎる想いに、所々浮かぶ暗雲の影。
きっと今、俺は情けねぇ顔をしてる。
誰にも見られる心配もなくて
こんな女々しい心中が表に出ていようと、何のリスクもない。
…思い違いであってくれ。
作業机から引っ張って来た椅子に腰かけて
ベッドで眠る存在に祈るように肘を膝に着いた。
合わさった掌が額と鼻に食い込む。
どこか客観的に己を捉える自分が
ふと今の自分を、アレみてぇだと思った。
生死の境をさ迷う患者をただ待つしか出来ない家族。
望む結果を待ちわびる以外に、どうすることもできない身の上。
生き死にに比べりゃ笑える程下らねぇ問答だ。
でも今の自分にとってこれは
少なくとも頭の大半をそれが占める程には重要な、願いで祈りだった。
「…ぅん?」
目の奥に痛みを感じた。
光の刺激がもたらすそれ。
朝気持ちよく目覚められる時、これをよく感じる気がする。
朧気な視界に映る見慣れた天井と
顔にかかるタオルケットの柔らかさ。
折角目が覚めたなら起きなきゃなって思うけど
柔らかめのマットレスに埋もれる体も
適温の気温で体を覆う柔らかいこの布地も、手放すには惜しい気がする。
このままこの幸せな空間で微睡んでいたい。
うとうとしながら眠りの世界に片足を突っ込んでるこの心地。
ずっとこうしてたいなって思いながら
洗い立ての枕カバーに頬を擦り寄せるように寝返りを打った。
「…ぅえっ?…だっ…はーーーッ!?」
「…煩ぇよ」
なぜ?
なぜにローさんがここにいらっしゃる?
あれ?
そもそも私昨日外でいつもみたいにエースと話してた。
なんでベッドに居て
なんでローがここに居るんだ…?
「もしか…しなくても、…運んでくれた?」
「立ったまま寝こけてるアホが居ればそりゃな」
あぁ
やっぱりそうでしたか。
眠たいなって思ったのは覚えてる。
でも外だったし、熟睡できるような体勢じゃなかったし
その欲に負けてもすぐ目が覚めるんだろうなって
そう思って睡魔に負けた覚えがある。
まさか朝まで爆睡するとは…
そして運んで貰っても気付かないとは…
「ごめ…んね、ありがと。」
ズボラな自分が恥ずかしいのと
申し訳ないのが相まって伺うようにローの顔を覗き見れば
怒ってるとかではない、本気で呆れてるとかでもない
そんなローの顔がため息を着いた。
何も言ってくれなくても、これは怒らせたとかじゃない。
分かりにくいこの人の心の中は、アホだなって呆れてても本気の呆れとかじゃない。
なんだかその雰囲気に耐えきれなくなって、視線を下に落とした。
…あれ
運んでくれたとは言え、なんでローは今もここにいるんだろ。
思い当たる節が実際当たってるかはわからない。
でも昨日作ったあれを渡してちゃんと話すには、今以上のタイミングなんてないと思った。