17-6
これがバチとか言うものなんだろうか。
目の前に居るのは、好きだった人。
ただの元、好きな人なんかじゃない。
本当の本当に好きで好きで仕方なかった。
大好きだった。
他の人を好きになった今も、人として尊敬してることには変わりなかったし
許されるものなら友達としてこれからも一緒に居たかった。
でも、これはなんなんだろうか。
私が今動けないのはその、好きだった人に両腕を掴み上げられているからで
この状態を嫌だと感じるのは
ローがキスして来たりその先まで踏み込もうとしてくるから───いや、違う。
指摘されて耳が痛いと思ったくらい
それがお酒の勢いだとしてもエースが傍に居てくれない寂しさだったとしても
理由は何であれ私はこの人に触れたいと思ってしまった事が何度もあった。
それは今目の前で起ころうとしてる事に違いなくて
なのにこんなに嫌で怖くて仕方なくて。
きっとそれは
ローが私を無視してるから。
シカトとかそういう無視じゃない。
ローは私の気持ちなんてどうでも良くてこうしてる。
自分の思い通りになればこの人は私の気持ちなんてどうでも良いんだって思ったら、ぞっとする程心が冷えた。
私だって譲らないけど
でもローの気持ちも考えた上でどうにか歩み寄りを図ろうと思ってたのに
ローにはそれすらもない。
私は一体今まで、この人の何を見てたんだろう。
こんなに思いやりのない人だった?
私が好きになったのは、…こんな独りよがりな人だった?
私はこんなロー知らない。
知らないからこそ、怖くて仕方ない。
呆然としながら、ピントの合わない光景の中で絶望してた。
見たくないものを少しでもボヤけさせて、現実逃避したかったんだと思う。
それなのに──
背中に回された手と、聞こえてくるファスナーを下ろす音と金具同士が離れていくかすかな振動。
はだけだすワンピースと肌の間を通るひんやりした空気が、これは現実で逃れようのない事だって
無情にも突きつけて来るんだ。
こんな時なのに
目の前で起こってる事こそが現実なのに
頭の中に思い浮かぶのは冷たい目もしてない、独りよがりでもない
私が好きになったローだった。
皆とはしゃいで騒いでる時に
仕方ねぇなって、呆れながらも少し優しい目で見守ってくれてる顔だったり
危ないことした時に
普段ポーカーフェイスな癖に珍しく焦ったような、本気で心配したような顔で駆け付けて来てくれた時の事だったり
抱きしめられた時に
ローも離れたくないって思ってくれてるんだろうなって、そう思えて仕方ないような力加減だったり
いくらでも湧き出てくる思い出は
私の"恋は盲目フィルター"が現実を美化させただけの幻か
変わってしまった、もう"過去のこと"なのか。
どっち道、今のこの人とは違う。
涙で滲む視界に
白煙の中で最期に笑ったエースの顔が見えた気がした。
エースはいつも優しかった。
私が気持ちに応えられないって知ってても、つらい時も悲しい時も、嫌なことばっかり考えてしまう時も
何の見返りも求めずに
いつだって気付いてくれて、理解してくれて、支えてくれた。
──こんなの、やっぱり嫌だ。
「──っ、ぃやぁぁぁあっ!!!やだっ!離してぇ!!」
「っ!」
エースは本当に、絶対に、心から私を大事にしてくれてた。
そしてそれはこれから先も
──一生変わらない。
両の手首を掴むこの大きな手から、逃れられるなんて思ってない。
例え逃れようがなくたって、それだけ嫌だって事が伝われば良いと思って暴れまくった。
「おい落ち着──」
「エース助け…、──痛っ!!」
首筋に走った、キスマークを付けられた時とは違う次元の痛み。
何かで刺されたような激痛の正体が何なのか、口元を赤く汚したローの顔を見て思い知った。
「死人が助けに──来れる訳ねェだろ」
口元に滲む血は、さっき私が噛みついた時のそれじゃない。
ローのじゃなく、私の血。
唖然と見上げた先にあったのは
よく見知った顔でも、さっき初めて気付いた新しい一面でもない
見たことのない顔だった。
そんな顔をさせる理由を考えて、ハッとした。
途端にさっきとは違う苦しさが、胸の奥から湧き出て来るのが止まらなかった。
暴れ喚き全身で俺を拒絶しながら火拳屋に助けを求めるウイに
気付けば噛み付いていた。
口内に広がる鉄の味で、自分の歯がウイの首筋の皮膚を押し破った事に初めて気付く。
出血する程強く噛み付いたのか俺は。
しまったと思った。
唖然としたように見上げて来る大きな瞳に滲む涙は
痛みのせいか、それともこの状況のせいか。
抑えきれねぇ独占欲と、守りてぇ筈の女に傷を付けた事の矛盾。
これは本来俺が望んだ形ではない。
だがしかし──ここで止めても逃げられて終いだ。
それもきっと…もう手の届かない場所へ。
「ゃ…だってば…っ!!──めてっ!!」
傷口から流れる血液すらも、逃がしたくないと思う俺はイカれてるんだろうか。
邪魔な上の下着を取り去ろうと再び肌触りの良い背中に指を滑らせれば
少し離れた場所で、何かの気配が動いた。
「──ねえ、俺って本当にタイミング悪いヤツだと思わない?いや…良いのか?これは」
いつから居た。
見なくても誰だか分かる声の主へと視線を向ければ
リビングへ続く階段の手摺にやる気なく寄りかかっているは、案の定ペンギン。
「取り込み中だ。見て分かンだろ」
「分かるからこんなにげんなりしてんでしょ。でも…ちょっとこの感じは頂けなくない?」
やはり今来たばかりではなさそうな口振り。
純粋に邪魔されたくねぇ気持ちもある。
だがまず何より、ウイをここで逃がせば
二度と会えねぇリスクを背負うのはペンギンも同じ。
「お前には関係ねぇ。船長命令だ、──どっか行ってろ」
「関係なくないってば。そこで泣いてるの…俺の大事な女の子なの知ってるでしょ」
迂闊にも、その言葉に動揺した。
咄嗟に振り返った先では、見られまいと急いで顔を背けるウイの頬に伝う涙。
「…とにかくお前は席を外せ」
泣かせるだけの事をしている自覚がない訳ではない。
ただ、目に涙をどれだけ溜めようとこいつは普段それを頑なに溢さない。
力ずくは思いとどまるとしても
邪魔であることには変わりないペンギンには、視線もくれずに言葉を投げた。
「俺今回自分の意思で来た訳じゃねぇんだわ。…呼んでるよ、麦ワラが。ネコマムシの旦那が到着したんだと」
っとに…
どいつもこいつもタイミングがくそ悪ぃ。
「今じゃなくても構わねェだろ」
「決めるの俺じゃないから俺に言われても困んだけど。麦ワラってそんな要求通る相手なの?…珍しく見る目ないのね」
わざわざ大海原のど真ん中でこうも集合してるのはワノクニに乗り込む前に直接その算段を打ち合わせる為。
四皇、ビッグマムの元から戻った麦わら屋達が合流した今
最後の待ち人であるネコマムシが揃ったなら頃合なのは頷ける。
だがこっちとしても1日2日待てと言う訳じゃねェ。
…それが通用しねェ相手だと言うのも一理あるが。
理屈も常識も、普通も通用しねェのが麦わら屋。
本当に最悪のタイミングだ。
「出てっても良いけどさ、今度は麦ワラが秒で呼びに来ると思うから。2人だけでしたいお話があるなら手短に──「ちょっと待て。──さっさと済ませて来る。お前はコイツを見張っとけ」
ペンギンを追い払って麦わら屋がここに来た方がそれこそ最悪だ。
リビングへと戻りかけたペンギンが僅かに顔をこちらへ向けた。
癖なのか無意識なのか、帽子の鍔を深く下ろしている事の多いこの男の表情は読めない。
「何急に。どっか行けって言ったり見張ってろって言ったり」
「必要なら状況は後で話す。ただ絶対逃がすな。縛り上げてでも捕まえとけ」
例え戦闘に関わらねぇ事だろうと
ウイ絡みの事だろうと
ペンギンは俺がここまで言う事に関しては納得していなくても遂行する。
普段の行いからは想像しがてぇ程、こいつは状況と空気が読め過ぎる男だから。
掴んでいた手首を解放した途端、糸が切れたようにしゃがみこむウイの顔は
今は見れなかった。
傷付けて、怖がらせた。
これは一刻も早く何らかの手を打った方が良い状況。
ただ、こっちも少し気持ちを落ち着かせて色々考えた方が良さそうなのも事実。
心苦しさを押し込めて
ウイに背を向け麦わら屋の元へ向かうべく足を踏み出した。
階段ですれ違ったペンギンは、返事もしなけりゃ目線を合わせる様子もない。
だがこいつに任せておけば問題ねぇ。
まずは麦わら屋の用件を片付けて俺も落ち着くべきだ。
地下から出れば地上には燦々と降り注ぐ日の光。
強すぎる日差しに、目の奥が痛んだ。
階段を昇っていく足音が、上のリビング、甲板へと移動して行くのが聞こえて
「っく…ぅう…ひっく…!!」
何かの糸が切れたみたいに涙がどっと溢れて嗚咽が止まらなくなった。
こんな筈じゃなかった。
怖かった。
でもなにより──
さっきのローの顔が目に焼き付いて消えてくれない。
あんな傷付いたような、自分を責めてるみたいな顔をしたローは初めて見た。
自分が良ければ私の事なんてどうでも良いなんてよく私が言えたと思う。
自分の事ばっかりで、ローの気持ちを考えてなかったのは私の方だ。
譲歩?歩み寄り?
違う、あんなのただの建前だ。
落ち着いてよく考えたらわかる筈なのに。
ローも言ってたみたいに、そんな自分勝手な拘りで関わり続けようと思う程
私は使い勝手の良い人間じゃないのに。
ただ我を通したくて
通らない事に腹を立てて暴れた。
ローだって1ミリも悪くない訳じゃない。
でも病気かってくらいに自分の道を貫く意志の強い人が、あんな顔するなんて…
「ハイ、涙と鼻水と首のそれ用ね」
頭上から聞こえて来た声にびくりと肩が振れる。
そうだった。
ペンギンが居たんだ。
散々泣いてたから今更な気もするけど、なんだか気まずいし見られたくなくて顔を背けた。
差し出されたティッシュだけ何枚か貰って、思い切り鼻をかむ。
「ここで上着でもかけれたら良かったんだけど。俺これ脱いだらパンイチだけど見たけりゃ脱──「げっごうでず!!!」
おどけてるペンギンがつなぎを貸してくれようとしてるのは全力で遠慮頂いた。
そ?と相変わらずなペンギンに、なら背中のファスナー上げときなさいって言われて
胸元が丸見えだったことに気付いて慌てて背中に手を回す。
「流石にそれは痛いか」
何とも言えない顔で苦笑いするペンギンに、首って指さされて
そこを覆った手に付いた想像以上の血に驚いた。
「違う…痛いのなら、平気…」
痛いのは我慢出来るようになっても、つらい感情の処理の仕方だけは一向に成長しない。
全部自業自得なのに。
自分が決めて、選んで、招いた結果なのに。
そんなにつらいならローに乗りかえれば良いのに。
どれも嫌で
そんな自分が更に嫌になって
また涙は溢れてきた。