18-17
ブラーヴェの結婚式会場となる豪華客船には、遠方からの招待客や夜遅くまでの宴に備えていくつか客室が用意されてる。
そこの1つに、父様はいる。
さっき甲板で喚き散らした時ね、叩きのめし甲斐のない父様に唖然としたの。
なんでこんなちっぽけで弱い人間の言うがままになってたんだろうって。
腹が立った。
何を言われても打ちのめすくらいの文句の引き出しがあったのに、どれも開けさせて貰えなかった事に。
怖くなったり不安になったり、そんな原因を作った人間が大したことなさ過ぎた事に。
愕然とした。
こんな人に踊らされてたのかって。
でも、部屋に近付くにつれて
父様と話すまでの時間が近付くにつれて
自分でも信じられないくらい冷や汗をかいた。
怖くなった。
逃げ出したくなった。
ローは何も言わない。
ただ少し前を一緒に歩いてくれてる。
ローに来て貰って本当に良かった。
置いていかれないようにちゃんと進める。
一人じゃ父様の部屋まで、きっと辿り着けなかった。
客室の扉はね、上の式場とは対になるような深くて濃い木目のそれを皆で選んだの。
式を待つ間、式を終えた余韻
それを感じながら過ごす時間は、高級感がありながらも落ち着いた雰囲気が良いってコンセプトを決めた。
その扉の重厚感が、こんな形で自分にのし掛かってくるとは思わなかった。
この先に居る人が、この扉みたいに重くてどっしりした偉大な人であるかのように思わせるそれをノックしようとした手が
震えた。
叩いたら、戻れない。
動き出してしまう。
そう思ったら
その手を扉に打ち付けられずに、握りしめたまま動けなくなった。
聞きたいの。
知りたいの。
でも怖くて。
下を向いて動けずにいる私の、空いてる方の手が温かいもので包まれた。
大丈夫、一人じゃない。
最悪私がへこたれたり暴走しても
この人がついてる。
ぎゅっとそれを握り返した。
コンコン
「…はい?」
「───私。…ウイです」
踏み出した。
踏み出してしまった。
その一歩を。
扉の先から布が擦れる音と、慌ただしい足音が聞こえてきて
身が縮こまった。
それに、動揺した。
頭が働かないまま、鍵を回す音が聞こえて
すぐに開きかけた扉に焦ってしまって
ドアノブを必死で引き寄せた。
「…ウイ?」
「話を…しに来たの。聞きたい事がある。…でも顔は見たくない」
咄嗟に扉を閉めてしまったのは、怖かったから。
でもそれを言いたくなくて、弱い私は早速父様に嫌味を放った。
苦し紛れの強がりでしかないそんな嫌味を。
「このまま…聞きたい」
「それで構わないよ。…来てくれてありがとう」
やめて欲しい。
そんな聞き分けの良い人ぶらないで欲しい。
自分の弱さを嫌味で隠したのに
自分から来ておいて、話を聞きたいって言っておいて
それに応じてくれた手が開こうとした扉を思い切り閉ざしたのに
父様がマトモな行動をすればするほど
弱い犬程良く吠えるって言葉に今の自分が正に当てはまってる気がして嫌になった。
「──なん…で、あんな事したの…?私は父様にとって、自分の都合の為だけに利用出来れば良いような、そんな存在だったの…?」
「……あんな事、というのは…ウイを閉じ込めて…母親や外と遮断した事で、あっているか…?」
声が震えないように
私が泣き出しそうで逃げ出したいのが父様に伝わらないように
そうやって絞り出した言葉への返答は
慎重に、探り探りに
ゆっくりと紡がれた。
「それだけじゃないけど、それも聞きたい。…そうされて私がどう思うかとか…考えなかった?考える価値もなかった…?」
「…長くなるが、…纏まりもないかもしれないが、話しても良いか?」
繋いだままのローの手をぎゅっと握りしめた。
平静を装って、それでいいって返事をした。
どんな現実が襲いかかってくるんだろうって
恐怖と不安が全身に突き刺さった。
私はこれでも
ウイの母親を、あれを愛していた。
貴族同士の結婚だ。
相手のことも知らなければ、私はあの頃から既に自分に自信がなかった。
だが…彼女は優しかった。
暖かくて、笑った顔がとても魅力的で
こんな女性と生きていけるのならば、政略結婚も悪くないと思えたんだ。
この笑顔があれば、頑張れると。
彼女が居てくれるのならば
得体の知れない仮面を付けた者達の蠢く社交界も、乗りきれると思っていた。
そんな大切な女性との間に授かった命が、ウイだった。
首もすわらない生まれて間もないウイを初めてこの手に抱いた時
その重さに、まだ見えてもいないだろうその目で私の顔を覗き込んでは手を伸ばす我が子に
涙が出た。
可愛くて愛しくて仕方がなかった。
そして願ったんだ。
この子に最上の幸せを与えたいと。
愛する妻と愛する娘が何の不自由もなく、幸せに笑っていられる家庭を作りたいと
あの時確かにそう思った。
それまで私は、自分の領土で何がどれだけ作られているかも
それをどれだけ王族に納めているかも把握出来ていなかった。
他の貴族達との関わりも、持とうとはしてこなかった。
父に、使用人達にそれを任せるだけの
ただのお飾りの領主でしかなかったんだ。
父もいつかそれを出来なくなる日が来る事を考えもしなければ
自分が本来果たさねばならない役目が膨大で難解過ぎて、それを見たくなくて目を背けていた。
だがこのままではいけないと、ウイが生まれて心を入れ換えた。
領土を回って、資産を把握して
横の繋がりも作らなくてはと社交の場にも出るようになった。
学びだして、知り始めて
自分がいかに無知で無能かを思い知って絶望した。
献上品に添える文書の1つもまともに書けなければ
社交の場で交わされる会話にもついて行けず…
焦ったよ。
今までよく何もせずのうのうと暮らせていたものだと
その時初めて焦った。
至らないなりに、努力した。
楽しくもなければ意味のわからない会話ばかりの社交の場を毎晩回って
領地では領民達にもそんなこともわからないのかと馬鹿にされ
それでも
成長していくウイを見ているとそんな事は全て消し飛んだ。
嬉しくて愛しくて堪らなかった。
もっと努力しなければならない、この子の為にと
切に思った。
あれにも苦労をかけた。
こんな無能に嫁がせてしまって、自分という人間の至らなさを理解した途端に
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
ウイにはそんな苦労をかけたくないと、思うようになった。
立派な家の、仕事も社交も難なくこなせる男の元へ嫁がせたいと思うようになった。
あれは笑っていたな。
まだ歩けもしない子の嫁ぎ先を考えるなんて気が早すぎると。
気も早かったし
私はそこにとらわれすぎた。
どんなに努力しても、書類の作り方や領地の事を把握出来るようになっても
それは必要最低限でしかない。
自分より年下で格下である筈の貴族にも、私は舐められていた。
上に媚びを売って、取り繕って。
そんな嫌になる事しかない関わりでも、断てば取り残されると必死でしがみついた。
その内に、見下していた格下の者達は
領地を広げどんどん位を上げていった。
そんな時間を何年も過ごす内に
ウイがどんどん利発で愛らしく育つのを見ていく内に
自分の中で目的と手段がすりかわっていった。
この子なら、良い縁談も掴める。
格上の貴族、いや王族にも嫁げるかもしれない。
そうすれば
こんな下らない媚を売り続ける事も
見下される事も
なくなる。
所詮私は、そんな愚かな人間だった。
自分には何もない。
上に引き立てて貰って、娘の結婚で身を固めるしか
のしあがる術を思い付きもしないような
そんな哀れで愚かな人間だった。
あの頃のわたしは、その事にも気付けなかった。
いや…本当は自分が誰よりもそれを知っているからこそ、認めたくなかったのだと思う。
取り憑かれたようにウイに執着するようになり
良さそうな嫁ぎ先の話ばかりをするようになった私を、あれは止めたよ。
今のままでも十分だと。
領地が広がらなくても、偉い役職に付かなくとも
笑って暮らせる方が幸せだと。
本当に、その通りだったんだ。
だが私は
自分の苦労も苦悩も、あんな地獄のような社交の場に行かねばならない重圧も知らない人間が
解ったような口を利くなと、その時初めて手をあげた。
それが自分の中の歯止めを、壊してしまった。
ウイだけじゃない。
あれも、幸せにしてやりたいと思っていた筈なんだ。
おまえの為に頑張っているのになぜわからない、伝わらないと
一度のみならず何度も思い止まらせようと楯突いてくるあれを、見下すようになった。
思い通りに動かない事に、腹がたっていった。
痛い目に合わせれば、声を荒げれば大人しくなることに
自分は強くなったかのような思い違いをするようになった。
止まらなくなった。
「後のことはもう…頭の良いウイなら、想像もつくだろう」
語られた父の思いに、娘は言葉を発する事もなく
扉に手を付いたまま俯いた。
父は娘を、やはり出世の道具と見ていた。
男は愚かであった事だろう。
無能であった事だろう。
だが、彼をそうさせてしまったきっかけは
月日の移ろいととともに形を歪めてはしまったものの
娘への、家族への愛だった。