11.
恋愛経験が無いわけでは無い。
豊富とは言い難いが、中学生の頃に初めて彼氏が出来て、それから数人とお付き合いをした。
もちろんキスもその先も経験済みである。
初心な生娘では無い。
無い、のだが。
「ちょっとあの、何で私押し倒されてるんですか?!状況がよく分からないんですが!」
「んー、ふふ。照れてんの?可愛いね」
「て、照れてはないです!困惑してるんです!あと可愛いとか変なこと言わないでください!」
「なんで?だって本当に可愛いんだもん。顔真っ赤にしちゃってさぁ。もしかして初めてだったりする?」
「初めてでは無いですけど!」
「じゃあ良いじゃん」
「何も良くありません!てか五条さん酔い潰れてたんじゃ…!」
「家着いたら安心したのかな、元気になっちゃった」
「元気になったのなら良かったです!私帰りますね!」
「この状況で帰すと思う?」
「帰してください!恥ずかしくて死ぬ!」
「あは、恥ずかしいだけで嫌ではないんじゃん」
「い、嫌ですよ!」
「嫌なの?僕のこと嫌い?」
「嫌いでは無いですけど!」
「じゃあ良いじゃん。ほらほら、こっち向いて」
「ひっ…」
──遡ること30分前。
私は猪野さんと共に五条さんを抱え部屋まで辿り着いた。
力が抜けた身体を車から担ぎ出す時、あまりの重量感に思わず声が出た私を見た猪野さん曰く、『五条さん100キロくらいあるからなー』だそうだ。
全く気にしたことがなかったが、190を超える長身なのだからある程度の体重が必要なのは当然だ。
しかも、初めて触れた腕は案外太くずっしりと重く、筋肉質だった。
五条さんは着痩せするタイプのようで、これまで逞しい印象を抱いたことはなかったのだが、あの美しい顔を支える身体が逞しいというアンバランスさに妙に色気を感じたのは秘密だ。
そんなことを考えながら巨体を肩に担いでエレベーターに乗り、最上階を目指す。
私達に身体を預けたままぐったりした様子の五条さんからは全く酒の匂いがしなくて、こんなに酒臭くない酔っ払いは初めて見たな、と苦笑してしまった。
そうして最上階に着いたことをエレベーターが知らせ、ロックを解除し玄関の扉を開いたのだが、
それまでうんともすんとも言わずに全体重を私達に投げ出していた五条さんがいきなりわさわさと動き始めたのだ。
「あっ、五条さん大丈夫っすか?家着きましたよー。」
「んー…猪野…あとは大丈夫、だからもう帰って良いよ…」
「マジで大丈夫っすか?アレなら部屋ん中まで運びますけど」
「いや、いい」
「了解っス。じゃ、お疲れしたー!名前ちゃん、またな!」
下降を表示するエレベーターに乗り込んだ猪野さんに会釈して、未だ私の肩に腕を回している五条さんを見上げるとばっちり目が合った。
肩に感じる重さや猪野さんとの会話からして自分で立って歩けるくらいには回復した筈だがくっついて離れようとしないことに"まだ酔いが覚めたわけじゃないんだろうな"と、一緒に部屋に入ってしまったことがそもそも間違いだったのかもしれない。
勝手知ったる部屋の中を寝室へ真っ直ぐに進み、ベッドに降ろそうとした時視界が反転して、声を出す間もなく気が付いたら押し倒されていて、先のやり取りに戻るというわけだ。
なんて頭の中でここに至るまでの流れを整理してみても、やっぱり押し倒された理由は全く分からない。
色っぽい雰囲気なんてこれっぽっちも無かったし、私を見下ろす綺麗すぎる顔はお酒のせいで理性を失っている様にも見えない。
むしろ、先程まで私と猪野さんに抱えられていたのは何だったのか、と思う程いつもと変わらない様子に見える。
とは言えお酒を理由にしなければ到底納得出来ない状況だ。
「とりあえず水!水飲みましょう!酔いを覚ましましょう!?」
「もう酔いは覚めてるよ」
「酔っ払いは皆そう言うんです!とにかく一旦退いてください!」
「どうしよっかなぁ」
「どうしようかな、じゃなくて!わ、私こういう事はお付き合いしてる人としかしないって決めてるんです!」
「そう、じゃあ付き合っちゃう?」
「っ!変なこと言わないでください!付き合いませんし五条さんもそんなこと軽々しく言っちゃダメですよ!とにかく退いてください!」
「はーい……」
数分の攻防の後やっと私の上から退いた五条さんはわざとらしく唇を尖らせている。
あざとくて可愛い顔だなぁ、と思ったことは秘密だ。この状況でそんな事を口走ればまた変なことをされる可能性がある。
「水、持ってきますね。五条さんは横になっててください」
「んー、ありがとう」
平静を装って寝室を出たが、五条さんの顔が見えなくなったことで張っていた気が抜けてその場にしゃがみこんだ。
一体、何だったのだろう。
ムードもへったくれも無かったし、五条さんは終始冗談めいた口振りだった。
それは本気と言うより揶揄っているように感じたが、五条さんの目には確かに熱があった。
あそこで私が本気で抵抗しなければ、恐らく今頃は生まれたままの姿になっていたことだろう。
あらぬ姿を想像してしまい、顔に熱が集中したのを感じる。
頬に集まった熱が冷める気配はないが、いつまでもしゃがみこんでいる訳にもいかず、熱を冷ますように顔を手で扇ぎながらキッチンへ向かった。
◇
「お待たせしました。お水です」
「ありがとう」
「じゃあ私そろそろ帰りますね」
「え。帰るの?でももう終電無いよね」
「あ。本当だ。…タクシーか、まぁギリ徒歩で帰れないことも無いので大丈夫です」
「いやいや徒歩は駄目でしょ。てかさ、だったら泊まってけば良くない?どのみち明日は家に来る予定だったんだし」
何でもない様に『泊まって行ったら』と提案されたことに、さっき何があったのかこの人は忘れたのか?と驚いてしまう。
「あ、絶対何もしないから。さっきはちょっとふざけちゃっただけ。だから、ね?」
「…でも、お風呂とか入りたいし…」
「家の使えば良いじゃん」
「着替えも無いし…」
「僕の服貸すよ」
「…でも下着が…」
「それくらい洗濯して乾燥機入れときゃすぐ着れるよ。それか、そこのディスカウントストアで僕が買ってこようか?度が過ぎたおぶさけのお詫びってことで」
「だ、大丈夫です!流石に下着を買ってきてもらうのは恥ずかしいです…」
「あ、そっか。確かにそれは嫌か」
「だから帰りま、」
「う…なんか、気持ち悪くなってきた……どうしよ、このままだと僕寝ゲロちゃうかも…寝ゲロしてそれが呼吸器に詰まって窒息しちゃうかも……」
口に手を当てわざとらしく唸る五条さんの顔色はとても良いし、そもそも自分で酔いは覚めたと言っていたのだから十中八九嘘なのだろうけど、どうしても私を泊まらせたいらしい五条さんは白々しい演技を続けている。
その後もうーうーと唸る五条さんに根負けして、"絶対何もしない"と再度約束をさせた上で泊まらせてもらうことになった。
何故か同じベッドで眠る気満々だった五条さんを説き伏せてリビングのソファを借り、五条さんにしては小さめのTシャツと短パン、それからブランケットを借りた。
何だかんだ言っても五条さんのことだから自分もリビングで寝るとか言っていきなりドアを開かれるんじゃないか、と警戒していたのだが、予想に反してちょっかいを出されることはなく、というかシャワーを借りている間に寝てしまったのか、その日寝室から出てくることは無かった。
乾燥機にかけたせいでやや縮んでしまったらしいブラジャーの締め付けを窮屈に感じながらも、横になればあっという間に眠気がやってきた。
自分が寝ているのはソファだと言うのに、家のベッドより断然寝心地が良い気がする。
しん、と静まり返ったリビングで、微かに聞こえてくるのは家電の稼働する音くらいだ。
それもほんの僅か、集中して聞こうとしなければ耳につかないくらいの微かな音。
それに呼吸する度に肺いっぱいに広がる五条さんの香り。
借りたTシャツやブランケットから強烈に香ってくる柔軟剤の匂いも嗅ぎなれたものだし、何ならこれらを洗濯して畳んだのは私だ。
普段は"良い匂いだな"と思うくらいで特に気にした事もなかったけれど、今は妙に緊張してしまう。
押し倒されたりなんかして変に揶揄われたせいもあるだろうけど。
それにしても、改めて間近で見た五条さんの顔は本当に綺麗だった。
格好良いとか、そんな次元じゃない。
美術品を見た時のような衝撃、感嘆。
初対面から五条さんの顔が整ってることなんて勿論知っていたけれど、まじまじと見た事は無かった。いや、見ないようにしていた。
私は所謂イケメンが苦手なのだ。
小学生の頃、イケメンで足が早いと女子から人気だった男子に憧れていた。きっとあれが初恋だったのだと思う。
初恋は実らないとよく言うけど、私の初恋は実らないどころか最悪な結末を迎えた。
それは忘れもしない小学5年生の夏のこと。
何がきっかけだったのか、もう忘れてしまったけど、クラスで目立つお調子者グループの男子が『お前達付き合っちゃえよ!』と私達を冷やかした。
どぎまぎする私に対して、『はぁ!?』と大声をあげたその子は『あんなブス、俺無理だから』と顔を歪ませ拒絶の言葉を吐いた。
今なら解る。それが羞恥からくるものだと。あの子は確かに私の事を好きじゃなかったと思うけど、根はとても優しい子だった。
確かに私は特別可愛くも無かったし頭が良いとか優しいとか取り立てて秀でたものがあった訳ではないけど、まぁ普通だったと思う。
酷い言葉を掛けられるほど浮いていた訳でもないし、その子ともそれなにりに仲が良かったと思う。
『うわ、最低〜!ブスとか言うなよ!』と言いながら下品に笑い、興味を失ったのか違う話題で盛り上がり始めた男子達を一瞥したあと此方を向いたその子の悲しそうな、バツの悪そうな顔は今でも忘れられない。
今なら、彼もある意味では被害者だと思える。まぁ、揶揄われたとは言え容姿を悪く言い拒絶したことは子供であろうと許されないが。
実際、11歳の私の心に大きな傷を残したそれは癒えることの無いまま、中学生になっても高校生になっても私を蝕み続けた。
そのせいで私はイケメンや目立つ男性が苦手になってしまったのだ。
社会に出てそれなりに経験を積んだ今はあの頃に比べて苦手意識は薄くなり、初恋のトラウマを俯瞰的に考えることも出来るようになったが、それでも深く関わりたいとは思わない。
それを表すように、私が今までお付き合いした男性は皆、一般的に女性が理想として上げる男性像とは真逆のような人だった。
見た目で判断しているつもりはないのだが、そもそもイケメンと親睦を深めようという気にはならないし、きっと向こうも私の様な下の中、良くて下の上程度の女とはどうもなりたく無いだろう、と関わりを持つことさえしないので、子供の頃のトラウマと言うのは本当に根深いものなのだと思う。
ぐだぐだと子供の頃のトラウマまで思い出してしまったが、完結に纏めると私はイケメンが苦手で、五条さんの顔をまじまじと見たことが無い、という事だ。
今まで"物凄いイケメン"というぼんやりした認識しか無かったけど、初めて至近距離で見たあの人の顔はそういう枠じゃ収まらない、規格外の整い方をしていた。
「…むしろ彫刻とか美術品に近いからいけるかも…」
そんな私の呟きは静かに暗闇に溶け込み消えていったのだった。
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