12.
ジュウジュウと何かが焼ける音、それから鼻腔を掠める香ばしい匂い。
カチャカチャ聞こえてくるのは食器の音だろうか。
良い匂い、と呑気な感想が浮かんだあと、五条さんが食事を用意しているのだと気付いて飛び起きた。
昨晩酒に潰れた──と言っても帰宅してからは元気だったが、一応五条さんを介抱するという名目で泊まらせて貰った上にそもそも五条さんは雇い主だ。
主人より寝坊した挙句、食事の用意をさせるなどハウスキーパー失格も良いところである。
手櫛で髪を整えながら急いでキッチンへ向かうと、主人が軽快にフライパンを振っている最中だった。
「おはようございます!寝坊してすみません!続きは私が作るので五条さんはゆっくり休んでてください!」
「おはよう。寝坊じゃないよ、まだ8時過ぎだし。むしろもっと寝てて良かったのに」
「え、まだそんな時間なんですか?随分早起きですね!二日酔いは大丈夫ですか?」
「全然大丈夫だよ。ありがとう」
「それは良かったです。─じゃなくて!朝食、私が作りますから五条さんは座っててください!」
「いいのいいの。いつも美味しいご飯作ってもらってるお礼だよ。大したものは作れないけど」
「そんなお礼だなんて…お給料頂いてるんですし当然の事ですから…!」
忙しなく動いていた手元がぴたりと止まり、フライパンの中で放置されたベーコンが焦げていく。
「あ!五条さん、焦げてます!」
「え?あ、」
五条さんは私の声にハッとした様子でコンロの火を止め、カウンターに置かれていた2枚の丸皿を手に取った。
丸皿には既にサラダとスクランブルエッグが盛られていて、空いたスペースにベーコンを盛り付けたら理想的な朝食の出来上がりだった。
図ったように完璧なタイミングでトースターからパンが焼けた音がして、トーストをお皿に移そうとしたけど座ってるように、と五条さんに促されお言葉に甘えて座らせてもらった。
おかずの乗ったプレートにトースト、即席だろうスープとコーヒーが運ばれてくるのを見ているうちに、私の胃袋は空腹を訴えて鳴き始めた。
他人が作る料理と言うのは一人暮らしの身にとっては大変貴重なのだ。
最後に2種類のジャムとバターが運ばれ、五条さんがテーブルに着いた。
感嘆の声を上げると『大したものじゃ無いけどね』と謙遜するが、朝食はこういうシンプルなものが1番良い。
「いただきます」
「はーい」
「…ん、美味しいです!」
「そう?なら良かった、って言っても焼いて盛り付けただけで殆ど料理とは言えないけどね」
「そんな事ないです!焼いたらそれはもう立派な料理ですよ。あ、五条さん、このジャム賞味期限切れてます」
「わ、本当だ。こういうのってお土産とかで貰っても自炊しないから使わないまま結局期限切れちゃうんだよねー。こっちは…大丈夫だ!ギリギリだけど!」
「お土産で貰って冷蔵庫で眠らせて期限切れちゃうのってあるあるですよねぇ。私はご当地の変わった調味料とかよくやっちゃいます」
他愛も無い、という表現がしっくりくる中身の無い会話は穏やかな朝にぴったりだ。
私の稼ぎでは一生縁のない高級マンションの最上階、広すぎる部屋からの眺めは最高で、対面には絶世の美男子と、テーブルには美味しい朝食。
何と言うかこれは、人々の"理想"の一端では無いだろうか。と思いながらこの貴重な時間を満喫していると、五条さんのスマホが鳴り、画面を確認した五条さんが苦虫を噛み潰したような顔をした。
「はぁ…ごめんね、ちょっと出てくる」
「はい。どうぞ」
日曜日の早朝に掛かってくる電話の内容なんて十中八九緊急を要するもので、社長さんと言うのは大変だなぁ、と同情しながらとろとろのスクランブルエッグに頬を緩ませた。
◇
「……行きたくない」
「休日出勤は嫌ですよね」
「今日は絶対連絡してくんなって言ったのに」
「それでも五条さんに電話が来たってことはよっぽどの事があったってことですから…行ってあげてください。美味しいご飯用意して待ってますから!」
果たして私のご飯が仕事を頑張る理由になるかどうかは疑問だったが、五条さんは『絶対夕飯前には戻る』と言って出掛けて行った。
同じ家で寝て起きて一緒に朝食を摂って、行ってらっしゃいと玄関で見送る。まるで新婚さんみたいだ。浮かれた思考が頭を過ぎったが、主人を送り出し留守を守り食事を用意し帰宅を待つのはハウスキーパーという自分の立場を考えれば特別な事では無い、と頭を振り最新形のドラム式洗濯機が鎮座する洗面所へ向かった。
◇
じんわりと手のひらが汗ばむ感覚がして、ぎゅう、と拳を握り込んだ。
ベランダに面した大きな窓からは人々が生活を営む音と、小鳥の囀りが聞こえてくる。
重苦しい空気が漂うこの部屋とは別世界の様に感じて、私も小鳥になって飛んでいきたい、と現実逃避をしてみたが、ソファにどっかりと腰を下ろした男の視線に呆気なく現実へ引き戻された。
「それにしても本当にごめんね。まさか君が居るとは思わなくて。いつもの癖で勝手に上がっちゃて…驚かせたね」
「あ、いえ…」
男、こと夏油さんは一見物腰が柔らかそうに見えるが決して私に友好的で無いことは視線で分かった。弧を描く唇の上で鋭く光る瞳は私を値踏みしているようで酷く不快だ。
「悟、どのくらいで帰るとか言ってた?」
「特には…夕飯前には戻る、とは言ってましたけど」
「夕飯前か…随分大雑把だな。電話も出ないし困ったよ」
「もしお届け物や伝言でしたら私が伝えておきますが…」
「……いや、申し出は有難いけど、いいかな」
申し訳なさそうに眉尻を下げているが、私にはその顔が"素性の分からない奴にお使いを頼むわけないだろ"と言っているように見えた。
貼り付けたような胡散臭い笑顔を見せるこの男がやって来たのはつい数分前のこと。
五条さんを送り出したあと身なりを整え、せっせと洗濯物を干していれば玄関の開く音がして、随分早い帰りだなと玄関へ走っていけば、そこに居たのは家主ではなかった。
全く予想外の事で不審者かと身構えてしまったが、見覚えのある特徴的な前髪と長身、柄の悪い風貌からすぐに夏油さんだと思い出した。
それと同時に猪野さんが『夏油さんは唯一五条さんの家に勝手に入れる』と言っていたことも思い出した。
いくら勝手に入れるとは言え、用事も無しに他人の家の中まで入らないだろう。
何か理由があって訪ねてきた筈だ。
しかし残念ながら家主は不在なのだ。
わざわざ足を運んでもらったのに申し訳無い、という気持ちを込めて不在を伝えてみても、夏油さんはそう、と言うだけだった。
そういう訳で家主不在の中、初対面同然の男と2人きりという異常事態に陥ったのだが、此方としては早く帰ってほしい一心で言伝を預かる提案をしたというのに、断られた挙句帰る様子も無い。
まさか五条さんが帰るまで待つつもりなのか、とげんなりしながら、今まで一度も棚から出したことの無い来客用の上等なカップに、貰い物だと言うこれまた上等な紅茶を淹れて出した。
私にとっては不快な男であっても、家主の大切な客人とあればもてなさない訳にはいかない。
「ん…これ、美味しいね。君のチョイス?」
「いえ、五条さんの家に元からあったものです。確か貰い物だ、って」
「あぁ。そういえば前の前の…いや、その前だったかな。お気に入りの子にこういうのが好きな子居たねぇ。その子に貰ったのかな」
「お気に入り…」
「気になる?」
「あ、いえ…気になると言うより、やっぱり特定のお相手は作らないのかなって思っただけです」
「やっぱり?何かそう思う事があったの?」
「…働かせてもらうようになって3ヶ月ちょっと経ちますけど、一度もこの家に誰かを上げた痕跡が無くて。五条さんの都合が悪い日は来ないってお約束になってるんですけど、一度も言われたこと無いし、週末は基本お家に居るし…でも、五条さんがモテないとは考えられないので彼女は居ないけど、その…遊んでるのかな、って。前に猪野さんが五条さんは手が早いみたいなこと言ってましたし。」
「なるほどねぇ……猪野はまた余計なことを…悟は自分のパーソナルスペースに無闇に人を居れたがらないんだ。家だって無断で入れるのは私くらいだから。君が来る前はたまに若…部下の子達に掃除して貰ってたけど。だからこの家に決まった人間以外が上がることは滅多に無いよ」
「じゃあ、家に呼んでないだけで実はお付き合いしてる方が居たり…?」
「それは無いね。悟との付き合いはかなり長いけど、悟が恋人を作ったことは一度も無いから。それに最近は仕事仕事で時間も無いし」
「え、あんなにイケメンなのにですか?あ、もしかして実は女性に興味が無い…」
「はは、違う違う。あの見た目だから昔から女の子に困ったことは無くてね。寄ってくる子はみんな悟の顔だったりお金だったりそういう"外側"にしか興味が無いからウンザリだ、って。」
「なるほど……」
「君にも分かる?悟に寄ってくる女の子達の気持ち」
「そうですね…確かに五条さんは見た目も良いしあの若さでお金持ちでおまけに優しくて親切だし…」
「え」
「私は幸いというか、タイプでは無いですし自分の立場を弁えてますから、優しくして頂いても変な勘違いはしませんけど、普通の子は好きになっちゃいますよね」
「アハハ!悟が優しくて親切か」
「な、何かおかしな事言いました?」
「ふふ、いや…悟は随分、君のことを気に入ってるんだなと思ってね」
「それってどういう、」
私の言葉を遮るように夏油さんのスマートフォンが着信を告げて震え出す。
画面を確認して可笑しそうに笑った夏油さんは『ごめんね、ちょっと出てくる』と言ってリビングを出ていった。
いきなり1人取り残された私は、ラックに置いたままの食器たちを拭きあげながら夏油さんが数十分前より随分柔らかく笑ってくれる様になったことに気付いた。
もしかしたら夏油さんは心配だったのかもしれない。
学生の頃からの仲で唯一この家に好きに上がり込める、というだけで五条さんと夏油さんの関係が特別親しいことは伺える。所謂親友なのだろう。
そんな親友が一度夜のお店でほんの数分会話しただけの女を雇っただなんて、心配になる気持ちは分からなくもない。
何せ私は家事代行サービスを提供する会社も何も通していない、五条さんから個人的に雇われているだけの素人だ。
残念ながらハウスキーパーによる窃盗、というのは少なからず実際に起こっていることだ。
それを生業とするプロなら事件を起こすのは極々限られた人間だけだと思えるだろうが、私はプロでも何でもない金に困っているだけの女だ。
五条さんがどこまで私の話を夏油さんにしているかは分からないけど、お金に困ってキャバクラで副業していたことを聞いていたら、そんな女を家に上げて盗みでもしやしないかと心配になるだろう。
夏油さんに会うのはこれで2回目だが前回はまともに話していないので実質今回が初対面のようなものだ。
やけに鋭い視線や、探るような態度は私が信頼に足る人間かどうか見定めていたのかもしれない。
何て事はない話を数分しただけだけど、信頼しても良いと思ってくれていたら嬉しいな、と思った。
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