15.


 心臓がまろび出るかと思った。

そんな表現を人生で一度でも使うことになろうとは思ってもいなかった。
どくんどくん、と大袈裟な音を立てる心臓を落ち着かせるように胸に手を当てて深呼吸をする。

そうして、目の前でにっこりと美しい笑みを携え手を挙げる五条さんへ向けて疑問を投げかけた。


「なんで、ここに居るんですか……?」



 それはつい数分前、膀胱の圧迫感に限界を感じて席を立ったことが始まりだった。

 今日は先日の合コンで知り合った男性二人と先輩の4人で食事をする約束の日で、本来なら五条さんの家で食事を作っているであろう時間に大衆居酒屋で飲む酒は正直、美味しかった。

五条さんと過ごす時間は楽しいが、そこはやはり雇用関係の延長線上という意識があるせいで気は抜けない。

対して、今日は完全なプライベート。
もちろん気は使うが先輩は私より意中の彼に夢中だし、程よく酔いが回っているおかげか心地好さを感じる。
私の前に座るのは先日最も話が弾んだ人で、話が合うので話していて楽しいし空気感が似ているのか楽だ。
彼のことを恋愛的な意味で好きとはまだ思わないが、こんな人と付き合えたら将来を考えられるのだろうな、とは思った。


 どこにでもある様な、平凡な家庭。
建売の広くは無い一軒家で夫婦に子供が2人、犬が一匹の暮らし。彼は子煩悩で休みの日には子供を連れて遊びに行ってくれる。私はパートをしながら子育てに励み、他所のお母さんよりお小言が多いかなあ、なんて悩みながらも愛情たっぷりに子供達を育て上げ、子育てが落ち着いたあとは夫婦水入らずで旅行をしたりして──

 そんな風に男との結婚生活を想像してみると、何だかとてもしっくりくるのを感じた。
 好きと結婚は違う、なんてよく聞くけれど、初めてその言葉の意味が分かった気がした。

 勝手な妄想を楽しみながら、『初対面でこの人と結婚すると思ったんです』とか『ビビビっと来たんです』という何処かの芸能人の言葉を思い出していると、膀胱に強い圧迫感を感じた。

お酒を飲むとトイレが近くなるのは昔からちょっとした悩みで、しかも何の前触れも無くいきなりマックスの尿意が押し寄せるのだから気が気でない。

 断りを入れて席を立った私は、本日3度目の御手洗へ駆け込む。
飲み会が始まって2時間経つが、その間トイレへ立ったのは既に3回。
私にしてはかなり少ない方だが、いよいよ気まずくなってきた。

 用を足したあとほんの少しだけメイクを直して、これ以上長居すると気分が悪いのではないかと余計な心配を掛けかねないな、と急いで木造の扉を開いた。

さっさと戻ろう、と一歩踏み出した時、手元からスマートフォンが滑り落ちて床に投げ出されてしまった。
嫌な音が鳴り響き、慌てて屈んだ私が手を伸ばすより早く、誰かの手が伸びてきてスマホを拾い上げてくれた。

お礼を、と顔を上げた先に居たのは、この場所に居るはずが無い、見慣れた顔だった。




「五条さん……」

「何?」

「何じゃなくて……どうしてここに?」

「あー、うん、偶々この近くに用事があってね。伊地知、って言っても名前ちゃんは分からないか。僕の部下なんだけど、そいつがどうしても一杯やってから帰りたいって聞かなくて!それで、目に付いたこの店に入ったんだけど……凄い偶然だね?」

 果たしてそれは本当に偶然なのだろうか。

 この店は私の家からも五条さんのマンションからも近いとは言えない場所にある。
私の家からならまだしも、五条さんのマンションからとなると結構な距離だ。五条さんの活動範囲とは思えない。

 そんな場所で偶然鉢合わせることなんて、本当にあるのだろうか。
何で、どうして、とは聞けなかった。
曖昧に笑い返すことしか出来ない私に対して五条さんは愉快そうに笑っている。

「じゃあ、あの、私そろそろ席戻るので…」

「あぁ、邪魔しちゃってごめんね」

「い、いえ!ではまた明日…」


 酔ったことで上手く頭が回らないせいにして、強烈な違和感の正体を突き止めることは止めにした。

今はせっかく楽しい時間を過ごしているのだから、と騒つき始めた胸中を宥め背中に感じた視線にも気付かないフリをして、賑やかさが増した店内の奥へ歩いていくのだった。




「ごめんなさい、遅くなりました」

「大丈夫ー?体調悪くなってない?」

「はい!御手洗がちょっと混んでて…」

「そう、なら良かった」

 5分ぶりに戻ったテーブルは、3人のグラスの中身が多少減っている程度で大きな変化は無かった。

 半分以上残して行った私のレモンサワーはすっかり汗をかいていて、グラスを手に取ると冷たい水が掌を濡らし、それがやけに気持ち悪く感じた。

そういえば五条さんはどこの席にいるのだろう。

さして広くない店内だが、半個室のようになっており、まじまじと見なければ誰がどこにいるかなんて分かりやしない。

この店内のどこかに五条さんもいる。

考えただけで、胸の鼓動が早くなった。
それは恐らく良い意味ではない。


 結局それから1時間も経たないうちにお開きとなり、先輩は意中の男性と飲み直すのだとご機嫌だった。
先輩の恋が実れば良いなと願いながらも、思っていたより随分と早い解散に残念だと思いながら店前での雑談に興じる。

「2人はこの後どうするの?もう帰っちゃうの?」

「あー…俺はまだ時間大丈夫だけど…名前ちゃんは?」

「あ、私もまだ…終電に間に合えば大丈夫です」

「あら、じゃあ2人も飲みに行ってきなよ!」

「どうする…?名前ちゃんが良ければ、俺──」

 男の言葉をかき消すように、がらがら、と派手な音が響いた。
それは店の木造の引き戸が勢いよく開かれた音で、開かれた引き戸の先には五条さんが立っていた。

 トイレで出会したあと、私は数回トイレへ立ったがその後一度も五条さんには会わなかった。
席へ戻りながらさりげなく辺りの席を見て回ったが、特徴的な白い頭は見つけられなかった。

だからてっきり、もう帰ったものだと思っていたのに。


「あれ?またバッタリ会っちゃったね、名前ちゃん。もう帰るの?」

 4人から一斉に向けられた視線など全く気にする様子もなく、私だけを真っ直ぐ見つめ、形の良い唇の端を吊り上げた。


「え、名前ちゃんのお知り合い?」

五条さんの美しいかんばせに見蕩れていた先輩が分かりやすく余所行きの声でそう訪ねてくる。
今まで意中の男に夢中だったくせに、と現金な先輩に内心悪態をつきながら何と答えるべきか頭を働かせる。

「知り合いというか……えっと、お世話になってる方、ですね」

「お世話になってるだなんてとんでもない。僕が名前ちゃんのお世話になってるのに」

「え?」

「あ、いえ、えーっと、前職の繋がりで、ですね、」

「そうだね、出会いは前職だね。厳密には前"バイト"かな」

「バイト…?学生時代の?」

「わー、あ、もう、そんなところです!ご、五条さんは今帰りですか!?気を付けて帰ってくださいね!」

 何故か含みのある言い方をする五条さんと、一々それに引っ掛かる先輩に肝が冷える。

五条さん、前に私が副業が会社にバレたらクビになると言ってバイトを辞めようとしたことを忘れているのだろうか。

ややこしいことになる前に五条さんには帰ってもらおうと促したタイミングでお店の中から真っ黒なスーツに身を包んだ眼鏡の男性が出てきた。

「五条さん、お待たせしました」

「おー、伊地知。…じゃ、連れも来た事だし帰るよ」

助かった、と思ったのも束の間。
五条さんは思い出したかのように、あ、と言うと口角を吊り上げ楽しそうに笑った。

「名前ちゃんも一緒に帰る?どうせ明日ウチ来るんだしこの間みたいに泊まっていけば良いよ」


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