16.




 意識の外で電子的な音がして、それがアラームだと気付くと意識が覚醒した。

重い瞼をこじ開けベッドから抜け出し洗面台へ向かう。

シュコシュコ小気味良い音を響かせ歯ブラシを動かしながら、ぼんやりと昨晩のことを思い出していた。




「名前ちゃんも一緒に帰る?どうせ明日ウチ来るんだしこの間みたいに泊まっていけば良いよ」

「ちょ、五条さん!何言って──」

「え、何ちょっと、名前この人とそういう関係なの?」

「ち、違います!私と五条さんはただのっ…あ、えと……知り合いで…!」

「知り合いってなんかちょっと寂しいなあ。僕の家に週4日も来てるのに…」

「何言ってるんですか!」

「ちょっともう、あんたそういう相手が居たなら言ってよね!」

「え、いや、」

「ほらほら、名前ちゃん車行こ?明日は午前中にはウチ来る予定でしょ?ウチに泊まるにせよ帰るにせよあんまり遅くなると朝起きるのしんどいよー?明日は気合い入れてご馳走様作ってくれるんでしょ?伊地知ー、車回して」

 これは誤解だと弁明したいのに私を置いて話が進んでいく。
何故か五条さんは誤解を解こうとはせず、それどころか誤解を助長させるような言い回しをしてはにこにことご機嫌に笑っている。

 気まずそうに佇む彼を見て、数年ぶりに感じていた恋の予感が消え去るのを感じた。

そうしてあれよあれよと車に乗せられ、五条さんのマンションへ向かう車内で自宅に帰りたいと五条さんを説得し、渋々ながら自宅アパートまで送り届けてもらった。

 シャワーを浴びながら弁明のメッセージを送るか否か暫く悩んだが、今更何を言っても無駄な気がしてそっとスマホを閉じた。
先輩にだけメッセージを送ったが返信は無く、先輩だけでも上手くいっていれば良いと願いながら眠りについたのだった。


 事のあらましを全て思い出した頃にはすっかり眠気は覚めていた。
あと1時間もすれば家を出る時間で、メイク道具を広げながら昨晩の事について改めて考えてみる。

まず、五条さんがあの場に居たこと。
五条さんは偶然だと言っていたけれど、どうしても腑に落ちなかった。
この広い東京で、お互いの生活圏内外で、それも同じ時間に、有名でも何でもない大衆居酒屋でばったり鉢合わせなんてそう簡単に起きることでは無いだろう。

加えて、五条さんが突然私の前に現れるのはこれが初めてではない。今まではまだ有り得る範囲だった。
疑問に思うところはあったが、深く考えなかったのは"職場は知られているのだから有り得なくは無いな"という考えからだった。

しかし今回はどうだ。私は、飲みに行くことは伝えていたが場所はもちろん伝えていない。
それどころか、私でさえ昨日の昼過ぎまでどこで待ち合わせるのか知らなかった。
つまり、覚えていないだけでうっかり口を滑らせたとか、五条さんが何らかの理由でメッセージアプリを覗いて内容を見たという訳でもない。

五条さんの言う通り偶然か、それとも。

偶然で無かったとしたら、私の予想が当たれば。

 深く考えてはいけない。その先にある真実を知ってしまったら、今のこの"普通"が崩れてしまう気がして、それは私の考えすぎだと頭を振り瞼の上で踊る筆に集中した。




「こんにちはー…」

「やぁ、いらっしゃい。今日もよろしくね」

「よ、よろしくお願いします」

 おかしな想像をしてしまったせいか、気まずさを感じずにはいられない私に反して五条さんはいつもと全く変わらない様子だった。

爽やかに笑った顔を見ていると、全て杞憂だったのでは無いかという気になってくる。
いや、そういうことにしておいた方が良い気がする。何となく、深追いをした先が恐ろしかった。


「なーに、考え事?」

「わぁ!す、すみませんボーッとしちゃって…」

「ふふ、そんな驚かなくても。もしかして昨日のこと?」

「え…いや…」

「"昨日僕五条さんと出会したのは偶然だったのかなあー五条さんってもしかして私のストーカーなのかなあー"」

「え、な、何を、」

「あれ、外れた?」

「す、ストーカーだなんて…」

「じゃあ昨日のことが本当に偶然だったのかどうかは疑ってたんだ」

 目が笑っていないというのを初めて見た、と思った。口元は弧を描き、いつものように軽い調子で話しているというのに目元だけは鋭い光を宿している。
それは私の薄っぺらな嘘の先に隠された本心を見透かしているようで、上手く躱す言葉が見付けられない。

「だっ…て……あのお店、五条さんの家から遠いですし…」

「そうだね。でもさ、遠いって行っても車で数十分程度の距離だよ?有り得ないことは無いと思うけど」

「でも……出先で五条さんに会うことが、妙に多いなって思ったんです。こんなこと…言ったら失礼かも、しれないですけど、そもそも私の会社に初めて来た時だって私は会社の場所もアパートの住所も何も話してなかったのに五条さんは知ってて……勝手にそういうことをする人だから、その…えっと…」

「君のことをあれこれ調べて把握しててもおかしくない、って?」

 図星を突かれ黙り込んだ私を見て、五条さんは笑った。

「そもそも、ソレをして僕に何のメリットがあるの?僕達の関係はあくまでも家主とハウスキーパーでしょ?それはちょっと自意識過剰じゃない?」

 自意識過剰、という単語に顔が熱くなるのを感じた。自分でも思わなかった訳では無い。むしろ、五条さんに疑いの目を向けた時、一番に浮かんだのはその単語だった。
熱くなった顔を隠すように俯き次の言葉を探していると、五条さんが小さく笑った声が聞こえた。

「あー、はは。ごめんごめん。ちょっと虐めすぎちゃったね。顔、上げて」

 優しい声色に導かれるように、俯く顔をそっと上げた。視線の先にある五条さんの顔は優しく微笑んでいて、何故か妙に安心する。
恐らく不当な手を使って私の会社や家まで調べ上げた事も、やたら出先で出会すことも、鋭い眼光も、私に違和感を覚えさせた原因は全てこの男なのに、その優しく微笑む美しい顏を見ていると全てどうでも良い気がしてくる。
こんなに優しく美しく笑える人間に、悪意がある筈が無い。

そんな風に頭の中のもう一人の私が囁いて、面倒くさがりで鈍感な私はまた考えることを放棄しようとする。

それなのに。


「名前ちゃんの考察、大体当たりだよ、凄いね!会社員なんて辞めて僕お抱えの探偵にでもなる?なーんてね、嘘嘘。でも名前ちゃんさぁ、今頃気付くなんてちょっと鈍すぎない?僕が言うのも何だけど、もっと早い段階で違和感に気付くべきでしょ。まぁその鈍さのおかげでここまで上手くやってこれた訳だけどさー」

 身振り手振りを加えて語る五条さんは、とても楽しそうに笑っているのに、その顔は今まで見てきたどの笑顔とも違くて、言葉の意味を理解するより先に本能が警鐘をならした。これは不味いと。


「…っ、か、帰ります…!」

「え、何で?まだ来たばっかりじゃん。それに今日は美味しいご飯作ってくれるんじゃないの?」

「あ、あたま、おかしいんじゃないですか…!こんな状況で何を…!」

「えぇー、ひど。頭おかしいなんて言わないでよ。僕、こう見えて結構ガラスのハートなんだよ?」

「と、とにかく、もう帰ります!これまでお世話になりました、今月働いた分のお給料も要りませんので、今日付けで辞めさせてもらいます!失礼します!」

 息継ぎもせずに一言で言い切ると、返事を聞くのが怖くて踵を返した。

リビングのドアに手を掛けた時、背後からクスクスと笑う声がして、反射的に振り返ってしまった。
何が可笑しくて笑っているのか私にはさっぱり理解出来ず、この人は異常なのだ、と改めて視線をドアに戻したと同時に、五条さんは口を開いた。

「名前ちゃんは必ずまた僕の所に来るよ。近いうちに。だから、"またね"」

 返事はせずにドアに手を掛け、今度こそ私は五条さんの家を後にした。


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