18.
「なん、で……」
「何で何でってさっきからそればっかりじゃん、ウケる。察しの悪い名前ちゃんにはイチから全部説明してあげないと分かんないかなー?」
悪魔だと思った。美しい微笑みで人間を誑かし絶望の淵へ突き落とす悪魔だ、と。
私はこの人にそういった意味の好意を抱いていた訳ではないが、美しくて優しい人だと思っていた。
初対面こそ最悪だったが、懐に入れた人間にはとことん優しく情が熱い人間なのだと勝手に思い込んでいた。
ヤクザだと知ったあとでも、少し期待していたのかもしれない。それでも五条さんは優しいのだと。
私が会社をクビになったことに五条さん本人は関係無いと否定してくれることを愚かにも期待し、信じていたのだ。
「……五条さんと私が繋がっていて五条さんがその…ヤクザだっていうのは社員からリークされたと聞きました…私以外にも繋がってる社員がいるって事ですか?」
「いや。繋がってる人なんて居ないさ。でもね、誰がリークしたのかは分かってる。あの日、名前ちゃんと一緒に居た女だよ」
「先輩のことですか…?」
「そう。あの女は僕が誰か知らなかったみたいだけど一緒に居た男は○○街でよく遊んでる男だから。もちろん僕と直接的な関わりは無いけど、あの街でそれなりに遊んでるヤツで僕のこと知らないヤツは少ないからねー。名前ちゃんが働いてたお店の斜め前に──って店があったでしょ?あそこの嬢に随分入れ込んでたんだけど諦めたのかなー」
「……つまり、あの人は五条さんを知ってて、それで先輩に五条さんの素性を伝えて、それを聞いた先輩が会社に、ってこと、ですよね…」
「そうだろうね」
「そんな偶然…」
「偶然だと思う?」
「……は?」
「僕ね、知ってたんだ。名前ちゃんがどんなヤツらと合コンして、先輩だっていう女が誰を狙っていて名前ちゃんが誰と仲良くなったのか、全部知ってたよ」
「け、計算だったってことですか。わざと、偶然を装って…」
「全部僕が仕組んだって言ったでしょ」
「…そんな…じゃあ、会社に電話したのも…」
「それは僕じゃない」
「え…なら誰が…」
「だからぁ、言ったでしょ。きっと名前ちゃんの親友って子だよ。名前ちゃんさ、自分の人の見る目の無さ、これでよぉく分かったでしょ?」
「あ、あの子がそんなこと…」
「……ふ、アハハハ!やっぱり名前ちゃんは素直で純粋でお馬鹿さんだね。可愛い。だから言ったでしょ、名前ちゃんは人を見る目が無いんだからもっと疑わなくちゃ。すぐに信じちゃ駄目だよ。会社に電話したのは僕の部下。もちろん僕が指示した」
「どうしてそんなこと…!」
「どうしてだと思う?」
理由なんて分からない。確かに私達は良好な関係を築いていた筈だ。いや、そう思っていたのは私だけで、五条さんは初めからこうする為に私を傍に置いたのかもしれない。
初めて会ったあの日のことを、本当は許してなどいなかったのかもしれない。
「…初めて会った日の失言を本当は許していなくて、とか…」
「え?そんな訳ないじゃん。てかあの日の事はマジで何とも思ってないから。分かんない?まぁ、分かんないならそれで良いよ。知ったところで君が会社をクビになったことは変えられないんだから」
「わ、わたし、もう帰ります…!」
「もう帰っちゃうの?もっと色々お話しようよ」
「話す事なんてもうありません」
「そんな事言わないでさぁ、」
「失礼します!」
「待って、って言ってるんだけど」
「っ……」
怒鳴られた訳でも身体に触れられた訳でもない。
それなのに、私の五感は恐怖を感じ取り動けなくなる。
「コミュニケーションはキャッチボールでしょ。投げるだけ投げて勝手に居なくなられたら困っちゃうよ。ここからは名前ちゃんにとっても悪くない"提案"だからさ、まぁ最後まで聞いてよ」
「提案…?」
「名前ちゃんお仕事クビになっちゃってこれから大変でしょ?転職先見付けるったってそんな急には条件の良いとこ見付からないだろうし、クビって転職に不利になるからねぇ…となると、今の会社と同じくらいの給料が貰えるとこなんて中々、ねぇ…?」
「…今日から1ヶ月は有給消化しながら在籍は残してもらえるのでその間に転職先見付けますから…今より条件が悪くなるのは仕方ないですし、落ち着くまではまたバイト掛け持ちしながらやり過ごします。……それとも私を路頭に迷わせた責任を取って良い就職先でも紹介してくれるんですか?」
「あれ、名前ちゃん怒ってる?ふふ、怒った顔も可愛いねぇ」
「ふ、ふざけないでください!ていうか…こんなことされて怒らない人なんて居るんですか?私の人生めちゃくちゃにして…」
「ごめんごめん。で、提案なんだけど。名前ちゃんの言う通り責任取って新しい就職先を紹介してあげようと思ってね。しかも、今の会社より高収入!」
「……風俗とか言わないですよね…」
「アハハ!言わない言わない!可愛い名前ちゃんを風俗落ちなんかさせないよ。てか前も風俗に斡旋されるかと思ったみたいなこと言ってたよね。あの時はまだ僕が何者か知らなかったのに。僕のイメージどんななの?」
「あんな、割の良い仕事紹介してあげるよとか言われたら誰だってそう思いますって…!それでその紹介してくれる仕事って言うのは…?」
「あ、そうそう。これを機にさ、正式にうちのハウスキーパーになりなよ」
「は、はぁ!?なる訳ないじゃないですか…!」
「何で?名前ちゃん、ハウスキーパーとして凄く優秀だからお給料もそれなりにあげるよ?そうだなぁ、月給制にして名前ちゃんの今の仕事の給料とバイト代足した金額の倍払うよ。完全週休二日制、ボーナス有り、残業休日出勤手当有り、有給有り。どう?悪くないと思うけど」
悪くない、どころかとんでもない好条件だ。
本当に言った通りの待遇をしてくれるなら、こんなの今の会社の役職、それも結構高い位置の役職に付いているレベルだ。
当然だが、これ以上の転職先を見付けることは出来ないだろう。条件だけで言えば夢のような話だ。
現金な私は、五条さんが全ての元凶であり異常者でありコワイ人であると分かっていながら、持ち掛けられた話に魅力を感じてしまった。
意思が揺らぎ始めたことを察知したのかここぞとばかりに五条さんは押してくる。
「勤務時間も8時間の拘束さえ守ってくれれば好きに決めてくれて構わないよ。例えば9時から17時とか、12時から20時とか。事前に連絡くれればその日の予定に合わせて好きな時間に来れば良いし、休みだって週に2日、好きな日に休めば良い。休日手当は1.5倍割増にするから稼ぎたいなって時は週6日でも7日でも働いてくれて良いからさ」
バンバン打ち出される条件の良さに、もう五条さんの誘いに乗っちゃおうかなという気になってくる。
だって、昼の給料とバイトの給料を足したその2倍の額を月給でくれると言っているのだ。おまけにボーナスまである。総支給額で言ったら3ケタ近いお給料を毎月貰えてボーナスまで、なんて、何かもう五条さんに監視されてようがストーカー紛いのことされようがどうでも良い気すらしてきた。
それ込みのお給料と思えばやれる気がする、なんて。
だけど、諦めかけた思考の端で父親といつか見たVシネマ映画を思い出した。
数々の残虐なシーンに目を逸らし耳を塞いだことは今でもはっきり覚えている。
それが誇張したものなのか、現実でも起こりうることなのか私には分からなかったが、それでも五条さんがどんな世界に身を置いているのかは分かる。
この人は怖い人で、私を窮地に追いやった異常者。この先もそんな人と関わりを持つなんて御免だ、と冷静さを取り戻した私が頭の中で叫んでいる。
目先の高給と穏やかな生活を天秤に掛けて、穏やかな生活に傾いたのだ。
今度こそこれで五条さんと関わるのはお終いだ。
「折角ですが、ハウスキーパーなら他の方を探してください。この機会にやってみたかったことに挑戦でもしようかと思うので、お誘いは有難いですがお断りさせて頂きます」
逆撫でしないように言葉に気を付けていると、そもそもこの人のせいでこんな事になっているのにどうしてこんなに下手に出なきゃならないんだ、と疑問と苛立ちを感じずにはいられないが、相手は色々とぶっ飛んでいる五条さんだ。
この際もう、ストーカー紛いの行為も会社にバラしたこともどうでも良いので、今はただ関係を切りたい、それしかない。
その為ならこのくらいどうと言うことはないのだ。
「…そっか。残念。でも仕方ないね。まぁ、さ、この先何か困ったことがあったら言ってよ。力になるから。ハウスキーパーは君以外雇うつもり無いから気が変わったらいつでも声掛けて」
思ったより随分あっさり引き下がったことにほっと胸を撫で下ろしながら、ありがとうございます、と頭を下げた。
何度も言うが全ての原因は五条さんだ。
それなのに、お礼の言葉を口にしている自分が嫌になる。勿論、本当に有難いとは思っていない。スムーズに話を終わらせる為、逆上させない為。
簡単に言えば恐怖に屈したということだ。
情けなくも感じるが、ヤクザ相手に無鉄砲に食らい付ける人がどれだけ存在するだろう。
恐怖に屈していようと、情けなかろうと、この人からさっさと解放されるならどうでも良い。
二度と頼るもんか。
そう誓う私を、五条さんは静かに微笑みを湛え見つめていた。
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