21.




 悪いことは立て続けに起こる。
更に言えば私は運も悪ければ間も悪い女で、人より不幸に見舞われることが多いように思う。

大抵、何事も最悪のケースが起こるので私は常に警戒しているしちょっとやそっとの事では驚かない。

だけど。


"建物の老朽化により建て壊しが決定致しましたので今月中に退去願います。"


という、あまりにも突然の告知には流石に驚いた。空いた口が塞がらない、とはこの事だろう。

 昨晩、仕事を終えて帰宅した私は、ポストにあった幾つかの郵便物を回収した。
チラシや請求書に紛れて茶封筒がひとつある事に気付いていたが、それには見覚えがあった為すぐに確認しなかった。

大家さんが私達居住者に何かを通知する時、この茶封筒が使われる。
宛先も消印も無いそれは大家さんが投函したものに間違いなかったので、さして気にしなかったのだ。

翌朝、普段より早く支度を終え余った時間で封筒の中身を確認してみれば"老朽化"、"建て壊し"、"退去"の文字が並んでいて、一瞬、時が止まった。

 いつだか五条さんに"ボロアパート"と言われたこのアパートは、確かに築年数こそそれなりに経っているが老朽化を理由に取り壊す必要がある程とは思えない。
それに、いくら取り壊しが決まったとは言えあまりにも急過ぎる。
普通はもっと何ヶ月も前から告知するものじゃないのだろうか。

不満も不安も挙げ出せばキリがない程浮かんできたが、落ち込んでいる暇は無い。
折角普段より早く用意を済ませたというのに、手紙のせいで家を出たのは結局ギリギリだった。

仕事があって良かった、と心から思った。これから引っ越すにもお金は掛かるし、何より仕事をしている間はあらゆる悩みから逃げられる。
新しい家や仕送りについては取り敢えず仕事が終わってから考えることにして、駅までの道程を急いだ。




「……つまり、クビってことですか」

「クビってんじゃないよ…いや、でもそう聞こえちまうか…」

「り、理由は…理由を教えて頂けませんか?」

「それは……詳しくは言えねえんだ。けど、まぁその…ウチの経営形態を変えようと思っててね。それで…名前ちゃんには辞めてもらうしか無くなったんだ」

「……そうですか」

「……悪いね……」

 出勤した私を呼び止めた大将は、大事な話があるから、と言って二階の空き部屋に誘導した。
何となく嫌な予感がした。
あの日のことを思い出して嫌な汗が滲むのを感じた。

 しかし今回は疚しいことは何ひとつ無い。
思い過ごしだと自分に言い聞かせ大将の後に着いていったが、結局嫌な予感は的中してしまった。

 理由を聞いて納得した訳では無いが、食い下がったところでどうにもならないことは目に見えている。

 それに、大将の苦しげな顔を見ていると、それを意地悪で言ったわけでも簡単に決めた訳では無いことも伝わってくる。
きっと沢山悩んだ末に出した結論なのだと思うと、尊重し、受け入れるしかない。

とは言っても、やっと見付かった職をまた失うのかと思うと心は重く沈み、それに追い討ちを掛けるように父から仕送りに関するメッセージが届いて、全てを投げ出したい気持ちになった。

 仕送りが増える分今まで以上にお金が必要なのに職を失い家を失い、もうどうしたら良いか分からない。
いっそ全てを投げ出して誰も知らない遠い地でひっそり暮らそうか。なんて考えてみても、結局最後には弟と妹の無邪気な笑顔が頭に浮かんで、踏み止まった。

もういっそ、風俗でもやってみようか。

そう考えた時、ふと、一人の男の顔が浮かんだ。
透き通るような白い髪、全てを見透かす青い瞳、現実離れした美しい顔の男。


「……五条さん…」




「久しぶりだね。元気だった?」

「…お久しぶりです。元気…でした」

「はは、本当に?とても元気そうには見えないけど。それで、今日は何の用かな」

 男はそう言うと、うっそりと笑った。

男、こと五条さんに連絡したのは昨日のことだ。
追い詰められた私の頭に浮かんだのは五条さんの顔で、あれこれ考えるより先にメッセージを送っていた。
全ての元凶であることも、五条さんはあらゆる意味で怖い人だと言うことも勿論忘れていない。
その上で、もう頼れる人は五条さん以外に思い付かなかった。
本当は何がなんでも頼るべきでは無いと分かっている。関わることのリスクも分かっているつもりだ。
だけど、身体を売ることが現実味を帯びてくると、途端に恐ろしくて仕方が無くなった。

 経験はある。けれど最後にしたのはもう何年も前で、そもそも私にとって性行為というのはあまり良いものでは無かった。
相性が悪かった、と言われたらそうなのかもしれないが私にとってそれは、とにかく早く終わってくれないかな、と願うだけの行為で、好きな人相手でさえそうなのに、不特定多数の男性と、だなんて考えただけで目が回りそうだった。

それならもういっそ、五条さんに頼った方が良い。
連絡してみて"もう気分変わっちゃったから"と言われたらその時こそ腹を括れば良い。

そうして送ったメッセージは5分と掛からず返信が来て、"直接会って話そう"と提案され、こうして会うことになった。

 指定されたのは五条さん達が纏めているという繁華街、つまり私が働いていたキャバクラがある街のど真ん中にあるレトロな喫茶店だった。

テーブルを挟んで向かい合わせに座る私達へ向けられる視線が痛い。
それは、私達が醸し出す異様な雰囲気のせいなのか、それとも目の前に座るこの男の現実離れした美しさが人目を引くのか。
いや、きっとそのどちらでも無く、五条悟という男が何者か知った上での好奇と、憐れみ。

五条さんのテリトリーで、且つ常連客が殆どを占めているように見えるこの古い店で五条さんを知らない者は居ないだろう。
そして私はどこからどう見ても裏の社会とは何の縁も無さそうな地味な女。
とてもプライベートでお茶をしに来たようには見えないだろう。

"おいおい姉ちゃん何しちゃったんだよ"、なんて常連客達の心の声が聞こえた気がした。


「……急に連絡しちゃってすみませんでした。用は…その…まだハウスキーパー募集してたら、やっぱり働かせて欲しいな…なんて…」

「あぁ!そういう事ね!うん、全然構わないよ。言ったでしょ、君以外ハウスキーパーを雇うつもりは無いって。僕としては優秀な君が戻って来てくれるのは凄く嬉しいことだけど、何かあったの?」

「……実は──」

 私はこれまでに起きた事を全て話した。別に事細かく話すつもりは無かったのだけど、五条さんは話を聞くのが上手い。
絶妙な誘導や欲しいタイミングで相槌を打ってくれるものだからつい話してしまった。
話したところで何かが変わる訳でも無いので構わないのだけど。

「なるほどね…それは大変だったね…仕事はいつまで?」

「今月いっぱいです」

「じゃあ家はいつまでに退去?」

「それも今月いっぱいです…」

「で、仕送りは来月から増える、と…」

「はい……話してて頭痛くなってきました」

「うーん……全部が解決しちゃう良い方法があるんだけど…聞く?」

「全部、解決…?聞きたいです…!」

「ズバリ、ウチに住み込みで働くこと」

「え」

「敷金礼金家賃光熱費タダ。どう?」

「……でもお部屋が…」

「ひと部屋余ってるよ。ほら、あの書斎として使ってた部屋。引っ越した時に一応書斎なんて作ってみたものの僕って仕事を家に持ち帰らないタイプだから全然使ってなくてねー。この間丁度断捨離して空いたとこなんだよ。そこ使って良いからさ」

 ね?と優しく微笑む五条さんの言葉に即答出来なかったのは、やはり全ての元凶はこの人だという思いがあるからだ。だけど今頼れる人はこの人しか居なくて、怖いとも憎いとも思っている筈なのに有難いと思う気持ちもあって、自分の心が分からなくなる。

いや、自分の気持ちがどうこう言っている場合では無い。
五条さんの提案に乗れば全てが上手くいく。
そんな気がして、小さく頷いた。
考えることにもう疲れてしまったのだ。
どうせまたこの人と関わりを持ってしまったのなら、とことん利用させてもらおう。

「…じゃあ、お言葉に甘えて…生活が落ち着くまでお邪魔しても良いですか?」

「勿論!落ち着くまでなんて言わないでさ、幾らでも居てよ」

「ありがとうございます」

「そうと決まれば早速お引越ししちゃおうか」

「え、でも期限は今月いっぱい、」

「ギリギリで引っ越すより余裕持って引っ越した方が良くない?大家さんもその方が有難いと思うよ」

「まあ…確かに……えーと、そしたら今週末なんてどうでしょうか。私土曜日ならお休みなので」

「僕も休みだから都合良いね。そしたら土曜日に業者頼んでおくからそれまでに出来るだけ荷物纏めておいてね。あ、家具はウチにあるもの使えば良いから服とか小物だけ纏めておいて。何なら服も日用品も全部新しいの買ってあげるから身一つで来ちゃっても構わないよ。家具の処分とか要らない物捨てるのはウチの若い奴らと業者に頼んどくからさ」

「そんなことまで頼れません、それは自分でどうにかしますから、」

「いいのいいの。君は苦労したんだしこれからの事に不安だって感じてるでしょ?僕にはこれくらいしか出来ないからさ、甘えてよ」

「五条さん…ありがとうございます…」

 良いってことよ!と、戯けて笑わせようとしてくれる優しさに、また胸が暖かくなった。
その度に私は自分を戒める。この人がどんな人か忘れてはならない、と。

だけど今だけは。
五条さんに救われた、と感謝せずにはいられなかった。

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