24.




 この数ヶ月間で、私の人生は随分変わってしまった。
職を失い、どうにかあり付いた新しい仕事すら失い、家を失くした。挙句の果てによく分からない理由で父の借金返済額は跳ね上がり、お金が必要だと言うのに仕事も家も無いという、まさに絶望の日々。
二十数年間生きてきた中で最も辛く苦しい日々だった。

 そんな人生のどん底から救い上げてくれたのは五条さんだったが、元を正せばこの人のせいで全てが可笑しくなったことを忘れてはいない。
しかし、この人以外に頼れる人も居らず、家も仕事も提供してくれるという言葉に複雑な気持ちは有りながらも有難く頷いた。

 ある程度お金が貯まったら五条さんのマンションを出るつもりだった。五条さんが提示してくれた給料と、家賃や光熱費を免除してくれるという条件を考えれば、いくら仕送り額が増えたと言っても充分貯金は出来る筈だった。

 五条さんは優しい。けれど、その優しさの裏側には常に仄暗い何かが見える気がして、以前のように笑いあえることは無くなった。
 例えば、高級バターを乗せたトーストの美味しさに顔が綻び笑いあった穏やかな朝も、週に一度届くネットスーパーの注文書に余計な物ばかり書き込む五条さんを窘めて笑った日も。
五条さんにされた事やこの人の立場が常に頭の隅にあって、心の底から笑う事ができない。
だから、出来るだけ早くマンションを出たかった。ハウスキーパーを辞めるつもりは無いが、さっさと自分でアパートを借りたいと思っていた。

しかし、現実とはいつも上手く行かないものだ。


『…それで、五条さんと付き合うことになった訳ね』

「そうなの。何ていうか…ここまで来ると運が悪いとか通り越してもう呪われてるのかなーなんて気になってくるよ」

『……ところで、アンタ今家?』

「そうだけど」

『そう…あのさ、今から言うのはあくまで私が勝手に思ったことで私の考え過ぎって可能性も充分あるんだけど…話半分で聞いて欲しい。それから、アンタは私の話に反応しないで。うん、とか、そうなんだ、とか会話の内容を悟られないような無難な相槌だけ打って』

「……え?」

『家中、盗聴機仕掛けられてる可能性あるから』

「う、うん」

『じゃあ話すよ。…まずさ、今のアンタの状況って…本当に偶然なのかな?あまりにも色々な事が重なり過ぎてるし、五条さんの都合の良い方に話が進んでる様な気がしない?私、名前から話を聞いた時からずっと考えてたの。どうして五条さんは名前を会社クビにさせるような事したのかな、って。名前に対して何かしら特別な感情があるのは確かじゃない?だけど五条さんの言うことが本当で名前に恨みが無いのなら、その特別な感情って何なのかな、って。そこまでするってかなりエネルギーの要ることだから、恨み以外で人を動かせるのって愛かな、って。でも普通はそんなことしたら嫌われるでしょ?だからどうにも腑に落ちなかったの。けど、今の話聞いてて確信した。五条さん、初めからこれが目的だったのよ。会社を辞めさせて、自分に頼るしかない状況を作り出して、名前を手元に置く』

 胸が強く鳴った。同時に嫌な汗も滲んでくる。似たようなことを少し前にも言われた記憶があるからだ。
数週間前、虎杖君に呼び出された日。以前からずっと気になっていた定食屋さんで話をした日。

『何か話したいことがあるなら、明日の昼か明後日の昼なら仕事休みだから話せる。くれぐれも家の中では電話掛けないようにね。十中八九、盗撮盗聴はされてると思うから。適当なこと言って外出出来たら電話掛けておいで。掛かって来なかったら外出出来なかったんだなって思っとくしまた普通に電話するから。あ、メッセージもやめときなよ。見られでもしたら大変だから。それじゃあね』

「うん。また…」

 通話の切れたスマホをソファの上に置いて、コーヒーを淹れにキッチンへ向かう。
普通にしていなければ、と思った。何処かで今も五条さんが見ている。そんな気がした。




 翌日、私は近所のカラオケハウスに居た。カラオケをしに来た訳ではない。友人と電話をする為だ。
友人に言われた通り五条さんに出掛ける許可を取って家を出た私は、一人になれて会話を聞かれなさそうな所を探した。
その結果、カラオケハウスに行き着いたと言う訳だ。


『もしもし』

「あ、もしもし。今大丈夫?」

『大丈夫よ。昨日の話の続きよね。…家は出てきた?』

「うん。今近所のカラオケに居る。ここなら防音もしっかりしてるから外から聞かれることも無いし、大丈夫」

『良かった、家を出られて。相手の妙な勘が働いたり、アンタがボロ出して家から出して貰えなかったらどうしようって思ってたから』

「多分、何も勘付いて無いしボロも出してない、と思う」

『それなら良いけど、油断はしないようにね。それで、どうなの?昨日の話、何か思う所があったから電話掛けてきたんでしょ?』

「うん…。実はね、先々週…いや、三週間前になるかな。前の会社の後輩が急に電話してきて会えないかって言われたの。それで、マンションの近くまで来てくれて会って話したのね。その時、昨日と同じようなことを言われたんだ。それ嵌められてるんじゃないですか、って」

 あの日定食屋の前で待ち合わせた虎杖君は神妙な面持ちをしていて、ただランチに誘われた訳では無いことは明らかだった。

 虎杖君は、自分の近況を簡単に語ったあと、私の近況を尋ねてきた。
新しい仕事を辞めたことは紹介してもらった手前報告していたが、家を失くしたことや五条さんのマンションで住み込みで働いていることは話していなかった。
それらの近況を話している間、虎杖君はひたすら真剣な顔をしていた。
そして、私の話が終わったあと、一層低い声で話し始めた。

「……先輩。それ、五条さんに嵌められて無いですか。俺、大将ンとこ辞めたって聞いてビックリして話聞きに行ったんです。そしたら大将は何も話してくんなくて…経営方針を変えたとか何とかしか言わんくて…でも、〇〇さん、居るっしょ?板前の。あの人も昔から俺のこと可愛がってくれてて…その〇〇さんが教えてくれたんスけど、先輩が店辞めさせられる前日の夜に大将と女将さんが"そんな良い話なら乗るしかない"、"あの人に逆らったら潰される"ってコソコソ話してたのを聞いた、って。これ、何かしらの圧掛けられてますよね。タイミング的にも先輩辞めさせなかったら店潰すとかそんな話じゃないのかな、って」

「え、えぇ?考え過ぎだよ…」

「それがそうでもねぇ、っていうか…俺も最近じいちゃんに聞いて知ったんスけど、あの店、五条さんと関わりあるっぽくて。正確には五条さんの親父さんがあの店のお得意様らしくて。五条さんがあの店に来たこともあるみたいなんスよね。昔大将がじいちゃんに、 "五条さんの息子は器量がエラく良いんだ"って話したことがあったらしいです」

「…そんな偶然…」

「マジですんません。俺本当に何も知らんくて」

「いいよ、虎杖君が謝ることじゃないよ!それにそうと決まった訳じゃないし。五条さんと関係があることは事実だとしても、だからって五条さんが裏で手を引いたのかどうかは分からないんだし…」

「あとこれは…俺の友達が言ってたんスけど」

「あぁ、前言ってた五条さんと知り合いのお友達?」

「はい。ソイツが言うには、五条さんは全ての物事に対して滅多に執着を見せないらしいです。でもその分、一度執着したモノには病的になる、って」

「……私には、そういうんじゃないよ。だって、そもそも私、自分で言うのも何だけど普通だし、あんな人が執着するような人間じゃないでしょう」

「そんな自虐は今してる場合じゃねぇし、あと先輩は魅力的です。…すんません、話戻しますけど、このままだとマジで手遅れになるかもしんないッスよ。住む所も働く所も無いってんなら俺の所で良ければ暫く匿うことは出来ます」

「いや、いやいや、そんな、それはダメだよ。ねぇ、虎杖君一回落ち着こう。大将と五条さんに繋がりがあって大将と女将さんがちょっと不穏な会話してたからってそれは、早計なんじゃないかな」

「相手は頭もキレて勘も良いヤクザの若頭ッスよ。そんな男が、五歩先十歩先を見据えてない筈が無い。絶対、先輩が違和感を覚えた場合の手も打ってある。早いに超したことは無ぇって俺は思います」

「……忠告ありがとう。でも、ごめん。もう少し様子見てみる。少しでも変だと思ったら…その時は力を貸してくれる?」

「……分かりました。マジでちょっとでも変だな、やべぇな、って思ったら連絡ください。それから、今日俺と会ったことは五条さんには秘密で」


 三週間前の会話は所々あやふやな部分もあるが、大方、こんな話だった。
それを伝えると友人は大きく溜息を吐いて、それからあの日の虎杖君のように一層低い声で話し始めた。

『ねぇ。もう、ビンゴだよ。五条さん、絶対仕組んでるって。今すぐ離れた方が良い』

「……そうなのかなぁ」

『腑に落ちない?』

「うん…だって、本当に五条さんが私のこと好きとかそういう理由であんなことしたんだとしたら、一緒に暮らし始めた時点ですぐに手出してくると思わない?こんな回りくどいやり方するかな…それに、肩書きだけとは言え一応恋人なのにキスすらまだした事もないし今までと何も変わらないの。それってやっぱり私の事はなんとも思って無くて、本当に親切心で私を守る為に恋人って立場に置いてくれてるんじゃないかなぁ…」

『……ね、名前、気付いてる?アンタさ、五条さんのこと庇ってるよ。五条さんにされたことを考えれば後輩君や私の考察は有り得なく無いと思うし、普通、あんなことされたら簡単に許せないよね』

「ゆ、許してなんか無いよ、五条さんが全ての元凶だって理解してるし異常だって分かってる。…けど、今回助けて貰ったのは本当で…それに、一緒に暮らし始めてから改めてその、良い所を再確認したって言うか…」

『あぁ、ほら、もうそれよ、それ!五条さんにマインドコントロールされてるんだって!』

「そんな事ないよ…!」

『されてる人はね、自分は今洗脳されてるかも、なんて思わないのよ。気付かないうちに洗脳されて相手の思い通りにされるから恐ろしいんでしょう。五条さんはさ、きっとこれも初めから計画してたのよ。一緒に暮らすように仕向けたのはただ単にアンタを傍に置きたかったからじゃない。ゆっくりじっくり時間を掛けて名前を洗脳して自分のことを好きだと思い込ませようとしてたんじゃないのかな』


 親友の推察は、突拍子も無いと思う。
その反面、妙に腑に落ちたことも事実だった。

「それは考えすぎなんじゃないかな、って思うけど…でも、全く違うとも言い切れない、のかな…正直言うと最近は五条さんのこと、信頼してるっていうか…許してない気持ちと、良い人だなって思う気持ちが同居してるの…」

 それに加えてほんの少しだけ、好意のような感情を抱き初めている。
恋人という肩書きを与えられたせいで意識してしまうからかもしれないし、五条さんの優しさや楽しいところに素直に惹かれているからかもしれない。
だけどこの気持ちはまだ芽生えたばかりの小さく幼い想いで、幾らでも引き返せる段階だった。

 許していない。だけど感謝している。
 許していない。だけど恋人という肩書きに喜びを感じている。

 自分の中にある矛盾が、必死に私の心を引き止めている。これ以上先に進んではいけない、と警鐘を鳴らしている。

『…まるでストックホルム症候群みたいね。相手は加害者だって分かっていながらやがて共感や好意を抱いてしまうの』

「私…おかしいのかな…」

『…まだ大丈夫。本気でどうにかしたいと思ってるなら、まずは後輩君に連絡した方が良い。力になってくれるって言ったんでしょ?ひとまず今は後輩君に匿ってもらって、その後は…思い切ってこっちに引っ越してきたら?どのみち、もうその辺では暮らせないでしょ。どうせ引っ越すならガツンと遠くで再スタートするのも良いと思わない?こっちなら私も色々力になれるから。家と仕事が見付かるまではウチに住めば良いし』

「うん、ありがとう。そこまで言ってくれて本当にありがとう。…私なりにもう少し考えてみる。」

『そうね、あくまでこれは私の考察であって必ずしもそうでは無いと思うし…とりあえずまた進展があったら連絡して。くれぐれも五条さんには勘付かれないようにね』

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