※五条視点です。
真っ白な部屋。柔らかな風が白いカーテンを揺らし、窓際には僕の瞳と同じ色をした薔薇が飾られている。
青い薔薇の花言葉は、奇跡、神の祝福。花言葉さえ美しいその花は、決して自然界では生まれない。故にかつての花言葉は──
"パパ!"
背後から聞こえてきた少年の声に、はっと顔を上げる。パパ、とは一体誰のことだろうか。もしや迷子か、と振り返ると、そこには僕にそっくりの子供がいた。
そっくり、なんてレベルじゃない。それは子供の頃の自分そのもの。その生き写しの様な子供は、僕の服をぎゅ、と握って、不安そうに首を傾げた。
"パパ、どうしたの?"
パパ、とは僕のことだろうか。確かに、この子供と僕は驚くほど顔が似ている。顔だけじゃなく、白髪も碧眼も全てが同じだ。けれど、この子供は僕の子供じゃない。と確信していた。だって、だって僕は──
その時、ふと、青い薔薇のかつての花言葉を思い出した。長年の品種改良を経て生まれたこの花は、自然界には存在しない花。そんな青い薔薇のかつての花言葉は"不可能"、"存在しない"
窓際に飾られた青い薔薇に込められた意味は、祝福では無かった。前回も、そして今回も。この世界が僕の想像から作り出された虚像であるというヒントを与えていただけだったのだ。
夢を見ているのだと気付いた途端、子供の姿がみるみる変わり、僕と同じ白髪は縮れた黒髪に、碧い瞳は黒く、白く透き通る肌は浅黒く、目は離れ重たい肉が伸し掛り、鼻はひしゃげ、分厚い唇の隙間からは大きな不揃いの歯が飛び出した。正直言って、醜い姿だった。僕にもナマエにも似ていない。お前は一体誰の子なんだ、と問い質そうとした瞬間、意識が浮上し夢から覚めた。
窓から差し込む柔らかな光は心地好いのに、じっとりと汗ばんだ背中が気持ち悪い。隣ですうすうと静かに寝息を立てる恋人は確かに可愛らしいのに、もう愛しいとは思わなかった。今はただひたすら、ナマエと、まだ見ぬその子供に頭を支配されている。どうしてもこの目で確かめなければならない。
ナマエの子供は一体誰の子なのか。
僅かに残された自分の子供という可能性。ナマエはそれを否定した。けれど、どうしても納得出来なかった。何が納得出来ないのかと聞かれたら、"何となく"としか言いようが無いのだが。確かめたところでどうするんだ、とも思うが、後の事は後で考えれば良い。
ベッドの上であれこれ考えているうちにスマホのアラームが鳴り、いつもの朝が始まる。居心地が悪そうにもぞもぞと動く恋人は昨晩、「明日は休みだから朝食作るね」と言っていたが、この様子だと朝食にはありつけそうにない。
いつもこうだ。付き合ったばかりの頃はそれはそれは健気なものだった。僕の為にあれこれ頑張ってくれて、その様子は僕の荒んだ心を宥めてくれたものだ。しかしそれはいち浮気相手であり立場の弱かった頃の話で、僕がナマエと別れてから彼女は少しずつ変わっていった。いや、これが本来の彼女だったのだろう。別に、僕の前で常に気を張ってて欲しいとは思っていない。彼女だって多忙な身だ。たまの休みにゆっくり朝寝坊したい気持ちは分かるし、洗濯を溜め込むのも掃除が行き届かないのも全部仕方ない。だけど、どうしても、ナマエと比べてしまう。
ナマエが完璧だったから、ではない。ナマエだって朝は弱いし洗濯物を溜めることも、部屋の隅にホコリが溜まっていることもしょっちゅうだった。それでも二人で笑い合いながら暮らせていたのに、どうして新しい恋人には"堕落している"と感じるのだろうか。
◇
「知らないよそんなの。何が悲しくてオマエの恋愛相談なんか乗らなきゃならないんだ。私は暇じゃないんだぞ」
「えぇ、そんな冷たいこと言わないでよ。僕達の仲じゃん」
「どんな仲だ」
げっそり、という言葉がぴったり当てはまってしまうほど窶れた硝子が大きな溜息を零した。
一時は、硝子のトレードマークになりつつある濃ゆい隈も薄れ肌艶も良かったが、ここ最近は元通り、いや、元より酷くなっている気がする。
「随分とお疲れそうだねぇ。最近帰れてないの」
「いや、帰れてはいる」
「ふぅん。ちょっと前は調子良さそうだったのに最近またげっそりしてきてない?」
「…あぁ、ナマエと暮らしてた頃?あの頃は家に帰れば美味い飯が出来てるし洗濯も掃除もナマエがやっておいてくれてたからな。初めて結婚って良いかもと思ったよ」
「完全に旦那側の目線じゃん」
「今時妻が家事やって夫は外で働きに出て、なんて価値観古いよ。妻がバリバリ働いて夫が家を守るってのもアリじゃない。私が働く分、誰かが家で待っててくれるなら結婚もアリかなって思っただけ…ってまぁ一般的には夫側か。それにしてもナマエは良い嫁になるよ。アンタ、本当に勿体ないことしたね」
芳醇な香りを放つコーヒーに口を付けながら、硝子は嘲るように笑った。
「……ナマエから別れよって言われた時、マジであの子に夢中でさ。小さいことでキレるヒステリックな女より、悟さん悟さん、って縋ってくる女の方が可愛いよなって思ってたし、あんなに好きだったことが嘘みたいに冷めてた。俺達は友達でいた方が上手くいくんじゃないかな、って思ったんだ」
「それなのに、いざ別れて他の女と付き合ってみたらやっぱりナマエの方が良かった、って?最低だね」
コトリ。マグカップが重たい音を立ててテーブルから離れていく。カップの縁に口を付けた硝子の視線は此方へと向けられており、その瞳からは怒りのような感情が滲み出ている。
「……友達だった時間が長いからかな。一緒に居て心地好かったんだよね。ナマエの前に付き合ってた子達も長く続かなかったけど、それはいつも頭の中にナマエが居るからだ、って思ってたんだ。だけど今回はそのナマエに対する気持ちが冷めて、浮気して別れてまで付き合った彼女だからきっと上手くいく、って思ってたんだけどなぁ」
「馬鹿か、本当に。五条お前、倦怠期って知ってる?」
「倦怠期くらい知ってるよ。マンネリ化して……え、僕達って倦怠期だったの?」
「そうじゃないの、普通に。ドキドキしない、でも居心地が好い。甘えが出てきてぞんざいに扱う、でも好き。お前達のはそれだったんじゃないの。そのタイミングでナマエが妊娠してホルモンバランスが崩れて喧嘩になった。お前はもうナマエにあの頃みたいなトキメキを感じないから好きじゃないんだ、って決めつけて別れたけどナマエを嫌いになった訳じゃないから新しい恋人とナマエを比べるしナマエが恋しくなるんだと私は思うけど」
思い返せば、思い当たる節は幾つもあった。硝子の言う通り、僕はナマエとの生活に心地良さを感じていながら、恋人と言うより家族に近い距離感に物足りなさを感じていた。
徐々に減っていった触れ合いは、僕達の関係を恋人という甘い響きから、パートナーへと変化させた。
「…ナマエ以外の女の子は皆ある日を境に大した理由も無くいきなり冷めてきて、あぁもう好きじゃないのかなって思って別れてきたから、ナマエに冷めた感覚もそれなのかな、って…元々付き合いが長いから他の女の子より長く持っただけなのかな、って思ってた、けど…」
「…まぁ、分からないよ、私はアンタじゃないから、あくまで憶測。一回ちゃんと自分の気持ちと向き合ってみなよ」
コトリ、と軽やかな音を立てながらマグカップがテーブルから離れていく。カップの縁に口を付けた硝子の瞳は少しだけ、柔らかかった。
.