※五条視点です。
子供が産まれたことを知らされたのは、鶯が春の訪れを告げ初めた初春のことだった。
"友達になんて戻れない"と吐き捨てられた僕が彼女の出産を知ったのは勿論人伝で、それは硝子や夜蛾学長などの僕達に縁の深い人物からではなく、何と僕の新しい恋人からだった。
何でオマエが知ってんだよ、と強い口調で咎めたい気持ちを押し殺して努めて冷静に聞き出してみれば、
「え、普通に皆知ってるよ?なんか、実は妊娠してたから術師じゃなくて補監やらせてもらってました〜ご迷惑お掛けしました〜暫くしたら術師として復帰するのでよろしくお願いします〜みたいな内容の手紙が届いた、って」と言って大きな丸い瞳をぱちぱちと瞬かせてみせた。
何だよ、それ。そんな手紙、僕のところには来てなかった、と思って最後にナマエと話した日のことが頭に過った。
"もう不必要に関わらないで"
そう言った彼女の瞳の冷たさに息を呑んだことは記憶に新しい。
偶然か必然かあの日から僕達は擦れ違いの毎日で、殆ど顔を合わせないままここまで来てしまった。高専で見掛けたとしても彼女は僕に一瞥もくれないし、話し掛ける隙さえ見せてくれない。
そろそろ太っただけ、と言って押し通すのは無理があるんじゃないか、と思うほど腹が目立つようになった頃、ナマエはまた休職した。産休だ、とすぐに気付いた僕とは対称的に僕の新しい恋人は"怠惰だ"と罵った。太りすぎて病気になったんだわ、と嘲笑う恋人を窘め、ついでに職場での私語は止めるように、と注意すればそれに腹を立てた恋人と喧嘩になった。ここ最近は喧嘩ばかりで──と、それは今関係無いので一旦置いておく。
ともかく、ナマエはついに母になったのだ。父親の居ない子供の母親に。
◇
真っ白な部屋で、カーテンが初春の柔らかな風に吹かれ揺れている。窓際に置かれた花瓶の中で、自分の瞳と同じ色をした薔薇が可憐に揺れている。
そんな部屋の中で、慈しむように我が子を抱き抱えるナマエはまるで聖母のようだ。ゆったり左右に揺れながら、時折腕の中で眠る赤子の顔を覗き込んで、幸せそうに笑っている。
なんて美しい光景だろうか。まるで宗教画のような洗練されたその美しさに引き寄せられるよう一歩を踏み出すとナマエがこちらに視線をやる。視線がかち合って、また嫌な顔をされるのだろうか、と気分が落ちたが、そんな僕の予想に反してナマエは穏やかに微笑んだ。
圧倒的な母性に垣間見える女としての顔。涙が出る程美しい微笑みに引き寄せられ、一歩、また一歩と足を進める。
"そんなとこに居ないでこっちに来なよ、パパ。この子もパパを呼んでるよ。パパー、抱っこしてー、って"
そうだ、そうだった。この子供は僕の子供で、ナマエは僕の奥さんだ。どうして今まで忘れていたのだろう。どうして、目が合っただけで嫌な顔をされるかもしれない、と身構えてしまったのだろう。僕達は幸せの絶頂にいると言うのに。
そうして、覗き込んだ赤子の顔は、浅黒い肌に低い鼻、目は重たい肉に埋もれている。黒黒とした巻き毛も含めて何ひとつ僕にも、ナマエにも似ていない。
"本当、この子はパパにそっくりだね"
そんなナマエの言葉が耳に届いて、はっとして顔を上げる。壁に掛けられた四角い鏡をそっと覗き込むと、赤子と同じ顔をした男と目が合った。
ああ、そうだ。僕とナマエは別れたんだった。ナマエは素性の知れない男と子供を作って、一人で産み育てると言って僕から離れていったんだった。
そう自覚した途端、窓際で揺れていた青い薔薇が黒く染まり、柔らかな風は止み、穏やかな微笑みを携えていたナマエの微笑みが消え、赤子が泣き叫んだ。
次に鏡を見た時、そこに写るのは見慣れた自分の顔だった。
「……ん、……くん……悟君!」
肩を揺さぶられる感覚で意識が覚醒し、自分が寝ていたことを自覚する。あれは、夢だったのか。
「もう、早く起きて!せっかくお休みが被ったんだからデートしようって約束したじゃん!」
ぼんやりする脳に響く甲高い声。夢の内容をじっくり思い返したいのに、眼前で不機嫌さを隠そうともしない彼女を宥めてベッドを降りた。付き合い初めてすぐの頃はしおらしかった彼女も、今ではすっかり遠慮が無い。関係が深まった証だと喜ぶべきなのに、どうも気になるのは自分の心が狭いせいだろうか。
でもナマエはそうではなかった。どんなに砕けた態度を取られようと、だらしない姿を見ようと気になったことなんて一度も無い。むしろ、片思いの期間が長かったせいか、友達だった頃には見られなかった色んな姿が新鮮で嬉しかった。もっと我儘を言ってほしいと願ったし、もっと自分を頼ってほしいと願った。それぐらい、僕はナマエが大切で愛しくて仕方無かった筈なのに。
◇
「まだ見るの?ていうかまだ買うの?似たようなの幾つも持ってるじゃん」
「えー?全然似てないよ。同じなの色だけじゃん。形も違うしサイズも違うし全然別物」
「…そういうもんなの?」
「そういうもんなの!まぁ、元カノがあの人じゃ、ねぇ。あの人、そういうの拘り無さそうだもんね」
ふ、と嘲笑を漏らした彼女の言うあの人、とは勿論ナマエのことだ。同じ職場なせいか妙に対抗意識を燃やしていて、事ある毎に"自分はミョウジナマエより優れている"とアピールしたがる。当のナマエ本人は僕にも彼女にも何の感情も無いというのに、僕らはナマエに囚われ続けている。
別れたと言えど一度は本気で愛した女のことを悪く言われるのはどうにも気分が悪くて、それを咎めて喧嘩になることもしばしば。彼女曰く、「今でもあの女のことが好きだから腹が立つんだ」とのこと。一般的には、別れてしまえば他人、もしくは他人よりどうでも良い人、に成り下がってしまうらしい。そういえば、ナマエも似たようなことを言ってたっけ。
こうして囚われ続けてる以上、少なくとも僕にとってナマエはどうでも良い存在では無かった。今だって、頭に過ぎるのはナマエとデートした時の記憶。「何でも買ってあげる」と冗談半分で言った僕に、「いくら悟がお金持ちでも貢がせるみたいで嫌」と真剣に返したナマエの横顔。その言葉通り、ナマエは僕から一方的に受け取るのを嫌がった。プレゼントは誕生日やクリスマス、バレンタインや記念日などのイベントだけ。それなら自分も贈れて対等だから、とナマエは言った。
別に、本当に構わないのに。そう思いながらもナマエの対等であろうとしてくれる姿勢が好ましかった。
しかし、これだけ稼いでいるのにそれを自分の女に使えないということにやり甲斐の無さを感じているのも事実であった。だから、この子と付き合いはじめた頃、お強請りされることに可愛さを感じたりもした。
最低だという自覚はあるが、僕にとっては取るに足らない値段の物でも、大袈裟に喜ぶ姿を見て"君の給料じゃこれは買えないもんね"と悦に浸っている部分もあった。
ナマエは準一級の等級を持つ呪術師。特級の僕には到底及ばないが、それなりの給料は貰っていたからある程度の物は自分で買えた。
それに、彼女が知らないだけで、ナマエは自分の給料で買ったコレクションがいくつもあった。わざわざそれを職場でひけらかしたりしないだけで、ナマエは結構、服やバックや靴、コスメの類が好きだったと思う。それも付き合って知った新しい一面。僕だってただの同期だった頃には知りもしなかった部分だ。わざわざそれを彼女に言ったところで新しい喧嘩の火種になることは目に見えているので黙っているけど。
「ねぇねぇ、こっちのピンクのバックも買って良い?これ、大きいから仕事にも持っていけそうじゃない?」
「…仕事にこの色持ってくの?流石に派手すぎじゃない?」
「えー、だって補助監督って真っ黒なスーツでダサいからこういう所で気分上げたいんだもん。あ、じゃあ靴は?ダイアナの新作に可愛いのがあってね、でも派手すぎないから仕事でも履けそうで──」
正に思い出していたナマエとは正反対の彼女の姿に、深い溜息が漏れた。
あれ、なんで僕、この子と付き合ってるんだっけ。
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