五条視点です。
ただの術師と補助監督という僕と彼女の関係が変わったのは、ナマエと喧嘩した翌日のことだった。
頭を冷やすつもりで同棲していたマンションを出て高専内にある自室に向かった僕は、残業中の彼女と出会した。彼女が僕に特別な感情を抱いていることは何となく察していたけれど、当然どうこうなるつもりは無かった。
その日も、軽く挨拶を交わしてすれ違うだけのつもりだったのに、折角高専に来たならやり残した書類仕事を片付けちゃおうかな、なんて思ったことが僕達の始まりだった。
「あ…五条特級術師。お疲れ様です。何か忘れ物ですか?」
ふわり、と笑った顔が、素直に可愛いと思った。あれ、この子こんなに可愛かったっけ。なんて内心衝撃を受けながらも、「ちょっとやり残したことがあってね」と適当にあしらい目当ての書類を手に取った。そしてそれを自室へ持ち帰り、適当に片付ける、つもりだった。
「それ、私にも出来る仕事なら私がやっておきますよ」
「え?いや、悪いよ」
「いえ。それくらいやらせてください。いつもお忙しい五条特級術師の役に立てることがあるなら私にお手伝いさせて欲しいんです…!」
僕を見上げた瞳は不安気に揺れていて、妙に心を擽られた。純粋な好意が眩しかった。
「…そこまで言ってくれるなら手伝って貰おうかな」
「是非!喜んで!」
途端、嬉しそうに頷いた彼女の満面の笑みを見て胸が高鳴った。その理由が分からない程子供じゃない。可愛いな、とハッキリ感じた瞬間だった。
「ありゃ、結構遅くなっちゃったね。帰り大丈夫?」
溜めに溜めた書類の山がどんどん減っていく様が爽快で、気が付けば書類の山は消え、時計の針は天辺に近付いていた。高専内に自室を持つ自分と違って、彼女はきっと自分の家から通っているはず。この時間に高専を出て帰れるのだろうか、というのは純粋な疑問だった。しかし彼女から返ってきたのは予想外のもので。
「はい、大丈夫です!元々今日は仮眠室で寝させてもらうつもりだったので…」
「え、仮眠室で?明日仕事は?」
「勿論あります」
何でもない、というように笑い、頷いた彼女に胸が痛んだ。自分の仕事を手伝わせたせいで帰れなかった。彼女は元々仮眠室で寝るつもりだったと言うけれど、彼女の手元にあった書類を見る限りそれは僕の為に吐いた嘘だろう。
彼女のいじらしさが可愛い。
彼女の好意が心地好い。
「そっ、か…なんかごめんね。僕のせいで遅くなっちゃって。お詫びに夜食でもご馳走させてよ。お腹空いてたら、だけど」
それは罪悪感から出た言葉であったが、それだけで無いことは確かだった。彼女を見ていると荒んだ心が癒されていく気がする。失いかけていた"ときめき"が思い出されていく気がする。
「良いんですか!?是非、是非ご一緒したいです!」
「良かった。って言ってもこの時間じゃ空いてる店無いからコンビニになっちゃうけどね。今度改めてちゃんとご馳走させてよ」
「そんな、ちょっとお手伝いしただけですし悪いですよ…!それに、五条さんと一緒なら何だって嬉しいですから」
頬を染め、伏せ目がちにそう言った彼女に劣情を抱いた。これから起きることの予感を感じながら笑顔の裏に隠して気付かないふりをする。
こんな自分の狡猾さに、良くも悪くも大人になったのだと感じる。
家に一人置いてきたナマエを想うと胸が痛まない訳では無かったが、別れ際に見せた怒り冷めやらぬ顔を思い出せばそれも薄れた。
そのあとは、わざわざ事細かに回想する必要も無い。
一線を越えた僕達の関係が術師と補助監督から恋人へと変わるまでそう時間は掛からなかった。勿論、彼女はナマエの存在を知った上でそれでも二番手でも良いから僕の恋人になりたいと言った。瞳を潤ませ頬を赤く染め上目遣いに見上げてくる彼女のあざとさに気付いていながら、それを受け入れた。
彼女と付き合い初めてからは、益々マンションから足が遠のいた。出張だ何だと忙しかったのは事実だが、家に帰る時間が全くない程では無かった。仕事から戻った僕が帰るのは高専内の自室か、彼女の家。
付き合いたての一番楽しい時期だから、というのを差し引いても、後ろめたさからナマエと暮らすマンションへ帰る気にはなれなかった。それでも時々、ナマエの居ない時間や寝てる時間を見計らって帰宅したのは、ナマエへの気持ちもあったからだと思う。
帰らないで欲しい、と腕を引く彼女を愛しく思っても、「怪しまれると面倒だから」と腕を振りほどいた。そうして帰宅したマンションで触れるナマエの痕跡は酷く落ち着くのだ。しかしそれはやはり彼女に感じる甘い気持ちとは違っていて、恋人としての終わりを感じ始めていた、そんな時。
『私達、もう別れた方が良いと思う』
唐突に言い渡された終わりの言葉。思い返せば、ナマエとまともに話したのは約一ヶ月ぶりのことで、久しぶりに聞いたナマエの声は10年を超える長い付き合いの中でも聞いた事のない、神妙なものだった。冗談で別れ話をするような性格じゃないことを考えても、ナマエは本気で別れたがっているのだと察した。
理由は、喧嘩したままロクに帰らなくなった僕に愛想を尽かしたか、僕のように関係性の変化を感じていたか。
彼女が僕たちの関係を言いふらしていて、まさかそれをナマエが聞いていたなんてこの時の僕は思いもしなかった。彼女はいつだって僕に従順で、控えめで可愛らしい女なのだと思っていたのだから。
とにかく、ナマエに別れ話を切り出された僕は、引き留めるでも理由を聞くでもなくアッサリそれを受け入れた。
ナマエの声色からして相当本気だということ、正直、ナマエよりも彼女の方が可愛いと感じている自分に気付いてしまったこと、そして、ナマエからの電話を受けた時、僕と彼女はベッドの中だった。
最低なことに、『夜電話する』とメッセージが来ていたことも、それに『わかった』と返したことも忘れて僕と彼女は甘い時間を過ごしていたのだ。行為を中断されたことへの苛立ちや目鼻先の快楽に負け素っ気ない言葉を突き付けて、僕達の三年間は終わりを迎えた。
漸く彼女を恋人だと堂々と言える様になった筈なのに、あまり気持ちは晴れやかでは無かった。そんな僕に反して彼女はとても嬉しそうに自信に満ちた笑顔で笑った。どこか悪意のあるその顔を見て初めて、彼女の狡猾さに気が付いた気がした。それでも、その程度で彼女を嫌いになったりはしない。敢えて鋭い言葉で表すならば、彼女はナマエから僕を略奪することに成功したのだ。"勝った"と感じているに違いない。だからそんな顔をするのも、分からなくはない。分からなくはないけれど、ちょっぴり、幻滅はした。
この時はどうしてそんな気持ちになるのか、自分でもよく分からなかった。だって、今の僕の恋人はナマエでは無い。愛する彼女がどれだけ狡猾だろうが、僕を奪うことに成功して喜んでいるならば可愛いもので、それだけ僕を愛している証拠である筈だ。なのに、どうしてもその勝ち誇った顔が醜く感じてしまうのだ。
きっと僕は彼女の穏やかで愛らしい所に惹かれたから、それは彼女に求めているものでは無いからだ、と思うことでその時は納得したが、今なら分かる。
狡猾な彼女を見て熱が冷える感覚を覚えたのは、僕がまだナマエを好きだからなのだろう。僕の大切な恋人を見下したことに腹が立ったのだろう。
あまりにも身勝手な話だが、硝子の言うように僕達は倦怠期を迎え、そのタイミングであの喧嘩が勃発した。ナマエ以前に付き合ってきた子達とは倦怠期を迎えるほど長く続いた試しが無かったせいで、僕はナマエへの気持ちが冷めてしまったのだと本気で思っていた。心の深い所ではナマエを必要とし愛していることに別れて、そしてナマエが知らない男の子供を身篭ったと知って初めて自覚した。
しかし、全て、何もかもがもう手遅れなのだ。あの頃に戻ることは出来ない。けれど。
僕にはまだやれる事が、やるべき事がある。
ふぅ、とひとつ深呼吸をして、可愛い彼女の番号をタップした。
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