狭霧山にも遅い春がやってきて、私の体もようやく回復に向かった。鱗滝さんはとても喜んでくれた。遅れたけれど命日のお墓参りがしたいと言うと、一緒についてきてくれた。
「義勇に手紙は書いたのか」
「…もう書かない」
熱に浮かされていたとはいえ、義勇に好きだと言ってしまったことを後悔していた。人間は欲張りだ。最初は手紙のやりとりだけでよかったはずだったのに、一年に一度でも会えるようになると、伝えるつもりもない言葉を口にしてしまっていた。私は次に何を求めてしまうのだろう。それが恐いのだ。
「いいか名前、よく聞きなさい」
鱗滝さんが私に向き直る。伸ばした手が私の両肩を掴んで、私は思わず身を硬らせた。
「お前が後ろを向く理由を、錆兎に預けてはいけない」
びゅっと強い風が吹いた。心の奥を突き抜けるような、強い風が。
「欲張って生きていくことは悪いことじゃない。人は誰だって幸せになるために生きている。死んだお前の両親も、ここに眠る子供達も。わかるな」
「…はい」
「幸せになることを恐れてはいけない」
鱗滝さんが私の頭を優しく撫で、そうすると涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。温かい鱗滝さんの手の温度が、優しい言葉と一緒に体の奥に入ってくる。
自分にとって幸せになるということがどういうことなのか、もう随分と、考えることすらやめていたような気がする。老い先短い老人の戯言だ、と言い残し、鱗滝さんはその場を後にした。
もう一度錆兎の方に向き直ってみる。私にとっての幸せ。今はまだよくわからないけれど、そこに義勇がいてくれたら。それだけは確かに思うのだ。
ふと手の甲に雨粒が落ちて、すぐに羽織のあちこちを濡らしていった。四月の雨は嫌いだ。なんだか錆兎が泣いているみたいで。
(210120)