さよならをきみに

それが夢だとすぐにわかったのは、目の前に錆兎がいたから。十三の私は錆兎に駆け寄る。錆兎の着物の合わせが肌けるくらいに強く引っ張って、何か言おうと口を開いたけれど、何も言葉が出て来なかった。涙で溢れる目で錆兎を見つめる。錆兎の唇は確かに動いていて、私に何かを伝えようとしてくれているのに、私の耳には錆兎の声は届かなかった。

頭の芯が突然ぐんと冷えていく。錆兎の着物を掴んでいた両手から力が抜けて、ああそうか、と、私は唐突に理解した。いつだって、望む人が望む時に望む言葉をくれるわけじゃないんだ。ごめんなさいもありがとうもたくさん思ってきて、いつか錆兎に会えたら伝えたいこともたくさんあったはずなのに。私の声も、錆兎の声も、私達は永遠に届けあうことができない。

しばらくそうして佇んだまま、私は錆兎を見つめていた。錆兎もまた、私に何かを伝えようとしてくれていた。そして自然に錆兎から手が離れると、私は二十一の姿に戻っていた。きっと錆兎にこうして会えるのは、これが最初で最後だろうと思った。

「幸せにな」

最後に錆兎の唇は、確かにそう動いた。

ハッと目が覚めると、まだ白む前の薄暗い空に紫色の雲が棚引いていた。最終選別が始まった日から数えて七日目の朝。きっと炭治郎は帰ってくる。根拠なんて何もないけれど、涙で濡れる頬がきっとそうだと教えてくれていた。美味しいご飯を作って待っていよう。私が炭治郎にしてあげられることは限られているけれど、自分ができる精一杯をやろう。

朝目覚めて炭治郎がいつもそうするように、私は禰豆子ちゃんの様子を伺いにいく。炭治郎が選別に行ってから頼まれたわけではないけれど、自然と体がそうしていた。けれどその日ばかりは、いつも通りとはいかなかった。私は部屋の引き戸を開けると同時に息を呑んだ。

「う、鱗滝さん!禰豆子ちゃんが…!」

この二年間一度も目を覚ますことがなかった禰豆子ちゃんが、半身を起こしてそこにいたのだ。私の声に慌ててやってきた鱗滝さんと一緒に、そっとそばに寄ってみる。

「禰豆子ちゃん、わかる…?」

しばらくは寝ぼけたようにぼんやりと、こちらの声に反応することもなく微動だにしなかったけれど、やがて部屋中をきょろきょろと見回し始めた。炭治郎を探しているのだろうと思った。

「お兄ちゃんね、最終選別に行ってて今いないの。あなたのこと元に…人間に戻すために頑張ってるのよ」

薄桃色の瞳がじっとこちらを見つめている。本当は少し怖かった。瞳の色も、長く伸びた鋭い爪も、鬼そのものなのだ。私の両親を殺したのと、同じ生き物。けれど次の瞬間、禰豆子ちゃんはにっこりと笑った。炭治郎によく似た、温かいお日様のような笑顔。恐れを成した自分を恥じてしまうほどに、可愛らしい少女の笑顔だった。


(210220)