あなたがいる世界

蝶屋敷を出てしばらく経っても義勇は私の腕を掴んだまま、振り返ることすらしなかったので、今更になって自分がとんでもないことをしたんだと自覚した。曲がり角を折れたところでようやく義勇が立ち止まって、ため息を一つついた。

「ごめんなさい」
「鱗滝さんが心配していた」

そうか、鱗滝さんが義勇に鎹鴉を飛ばしたのか。狭霧山で心配してくれている鱗滝さんを思うと余計にバツが悪くなって、義勇の顔も見れずつま先で地面の砂を弄った。

「俺も心配した」

その言葉にゆっくりと顔を上げると、怒っているのだとばかり思っていた義勇が優しい顔をしていた。たまらずその頬に、髪に触れたくなって、きつく握りしめた両手を背中に隠した。

「今日はもう遅い。泊まっていけ」
「義勇のところに?」
「ああ。歩けるか?」
「うん、大丈夫」

日はゆっくりと西へ傾き始めていた。どのみち日暮れまでに狭霧山へ戻ることは難しそうだ。自分の算段の甘さを反省しつつも、もう少し義勇の隣にいられることを少しだけ嬉しく思った。

大人になった私たちは、相も変わらず、何を話すでもなくただ目の前の道を歩いていた。ここが義勇の生きている世界なのだと、思えば思うほどに忘れたくなくて、過ぎゆく景色を目の奥に焼き付けていた。遠くの山々、優しい風に揺れる路傍の花。やがて青々とした竹林を抜けたところで、義勇は足を止めた。

「ここだ」

蝶屋敷にも負けじ劣らじの立派な屋敷だった。慣れた手つきで門扉に手をかける義勇の肩に、何処からともなく現れた鴉がゆっくりと羽を休めた。

「あら、寛三郎」
「名前カ」

そっと手を伸ばすと、これまたゆっくりとこちらに移り飛ぶ。いつも義勇の手紙を届けてくれる鴉の寛三郎は、もう年老いているのだろう、その一挙手一投足はとてものんびりしていて愛らしささえ感じてしまう。

「寛三郎、そんなに懐いていたのか」
「最近ハ会ウコトモ減ッタナァ」
「ふふっ、本当にね」

じとりした義勇の目配せに、寛三郎は私の手を離れ庭の方に向かってゆっくりと羽を広げた。

夜も更けて、義勇に与えられた部屋で休んでいたけれど、どうにも落ち着かなかった。思えば、鱗滝さんに拾われて狭霧山で暮らし始めてから、こんなに遠くに来たのは初めてだった。部屋の障子を開けて庭の方へ出てみると、真っ暗な空にぽつりと月が浮かんでいた。

「眠れないのか」
「義勇」

振り返ると義勇が立っていた。庭先に広がる一面の水面がゆらゆらと揺れていた。

「名前がこんなことをするとは思わなかった」
「そう、かな」
「そんなに炭治郎が心配だったのか」

ゆらゆら揺れる水面に映る月もまた、同じように揺れていた。月はあの夜と同じ形をしていた。錆兎と、私と、そして義勇を見つめていたあの夜と同じ。

「そうね、それもあるけど」

隣に並んだ義勇も、あの夜と同じ瞳で私を見ていた。

「錆兎は戻ってこなかったから」

もしもあの夜が最期だとわかっていたなら、私は本当の気持ちをちゃんと錆兎に伝えられていたのだろうか。さよならはいつだって誰も待ってはくれない。突然に現れて、突然に奪っていく。錆兎も、狭霧山に眠るたくさんの子どもたちも、私のお父さんもお母さんも。

いつか義勇も、そうして私の前からいなくなってしまうのだろうか。そんな思いを悟られたくなくて、私は義勇の瞳を見られずにいた。


(210310)