あなたがあなたをこえるとき

義勇に手紙を書こうか迷っていた。書こうと何度も筆を取ったけれど、何を伝えたいか自分でもわからなくて、結局半紙は白紙のままだった。

いつもの診療所からの帰り道、曲がり角の目印の小さな祠の向こうに人影が見えた。葡萄色の向こうにチラリと見えた亀甲柄で、すぐに義勇だとわかった。足音に気づいた義勇がこちらに向き直って、私も小走りで義勇のところへ駆けていった。

「義勇!」
「名前」

胸の奥がつかえてそれ以上の言葉が出てこなかった。たくさんの感情でごちゃ混ぜに波立った心の中が、義勇に優しく名前を呼ばれて少しずつ凪いでいった。

「義勇、どうしたの?」

見上げた義勇の瞳が、懐かしい色をしていた。その色は確かに、錆兎と三人で狭霧山で過ごしたあの日々の頃と同じ色だった。くだらないことで笑い合って、楽しいことはみんなで分け合って、あの時の優しい義勇と同じ色。

「名前に話したいことがあって来たんだ」

何もかもが違うような、でも昔からずっとそうだったような、不思議な感覚だった。義勇が大切なことを言ってくれるんだろうということはわかっていた。義勇が錆兎の命日以外に狭霧山に帰ってきたのは、柱になったあの時だけだった。

「もうすぐ大きな戦いが始まる。その戦いの末にどうなるかはわからない。俺自身も、鬼殺隊も。だけど俺は水柱として、俺の責務を果たしたいと思っている」

あの日、義勇は錆兎の墓前で自分は柱に相応しくないと言った。私は義勇の手を握ることしかできなかった。でも今目の前にいる義勇は、これから起こる出来事に真っ直ぐに立ち向かおうとしている。もうきっと、知らない横顔をした義勇はいないんだ。

「待っていてほしいんだ。名前に、ここで」

義勇のそのほんの少しの言葉が、私の胸を呆気なく溢れさせて、行き場を無くした想いが涙になって頬を流れた。抑えきれず義勇の胸に飛び込むと、義勇は優しく受け止めてくれた。

義勇の腕の中が温かいことを知ったあの日、あの時密やかに願ったこと。私は無力で、義勇にしてあげられることは何一つないと思っていた。だけど私は、義勇がいるから生きてこられたんだ。遠い空の下で血に塗れ戦う義勇の無事を願うことが、私の生きる糧だった。ねぇ、同じように義勇の心の片隅にでも、私は何かを届けることができていたのかな。

「絶対に…絶対に、帰ってきて…っ」

義勇の背中に腕を回して、強く強く抱きしめた。温かい義勇の腕の中で確かに聞こえる鼓動の音は、義勇が生きている証だ。もう誰も失いたくない。もう誰も傷ついてほしくない。ただ義勇に、生きていてほしい。

「ああ、約束する」

止まることのない私の涙が義勇の胸を濡らした。私たちが初めて交わした約束は、悲しい悲しい涙の味がした。


(210316)