生きてこそ

開け放してあった窓からさやさやと流れる風が心地よい日だった。棚の上の薬品を取ろうとうんと背伸びをするけれど、微かに指先を掠めるだけであと少し届かない。めんどくさいけれど踏み台を取ってこようか、最後にもう一度と手を伸ばしたところで、亀甲柄の模様がふっと視界を覆った。

「冨岡さん」

目当ての瓶をそっと手渡される。薄らと笑みを浮かべるその顔は、憑き物でも落ちたかのようにさっぱりとしていた。短くなった髪のせいなのかもしれない。ごくごく普通の、年相応の青年のようだった。

「ありがとうございます」
「いや」
「髪、切ったんですね」
「片端だとどうも、な」

葡萄色の裾が力なく風にそよぐ。声を聞けばいつもの冨岡さんで、いつものように口数は少ない。今日が最後の柱合会議になるとは聞いていた。もう柱であられるのは冨岡さんと不死川さんだけだ。もっとも、彼らのことを柱と呼ぶのもこれで最後になるのだろう。

「炭治郎に会いに?」
「ああ、見舞いがてら」
「もう随分と体力も戻ってきたみたいです。目処がついたら生家へ戻るって」
「そうみたいだな」

主を亡くしても蝶屋敷での日々は変わらない。最初は鬼殺隊の隊士として、右足に再起不能の傷を負ってからは、蝶屋敷で怪我をした人の手当や面倒を見る毎日だった。鬼が消えた今もそれは変わらない。けれども、元気になった人たちがここへ戻ってくることは二度とないのだ。生まれ故郷へ帰っていく人、新しい場所で新しい生活を始める人、様々だ。

「苗字は、どうするんだ?」

ふと、冨岡さんに名前を呼ばれたのは初めてかもしれない、と思った。そうか、冨岡さんは私のことを苗字って呼ぶのか。よくわからないけれど、なんだか心の奥底に真新しい気持ちがふつふつと湧いた。

「私は、戻る家はありませんから」
「そうか」
「まだ怪我をしている人はたくさんいますし、みなさんがここを出られたらゆっくり考えようかと」

戻る家はない。肉親もいない。でも、誰かに頼らなければ生きていけないほど子どもでもない。はっきりしていることはそれだけだ。本当は、移り変わりの激しい世の中で、どこか浮世離れしている鬼殺隊という組織の外側に出ていくのには不安がある。ゆっくり考えますなんて言えば聞こえはいいけれど、本当はただ怖いだけなのだ。

「それじゃあ、俺はこれで」
「冨岡さん、どうかお元気で」
「ありがとう」

一際強い風が吹いて、下ろしていた髪が視界を隠すように靡いた。思わず目を閉じる。窓の向こうにはちょうど桜の木が一本立っていて、さっきからいくつもの花びらが部屋の中へ舞い込んでくる。ゆっくりと目を開けると、冨岡さんの大きな手が私の髪に伸びてきた。その手のひらに乗った小さな花びらに、思わず顔が綻んだ。

「生きていれば、必ずまた会える」

生きていれば。そう小さく繰り返すと、冨岡さんの手から小さな花びらがはらりと風に舞った。心臓がどくんと鼓動を打った。何かが私の中で大きく動いたようだった。

その言葉は、私に向けてくれたものだったのか、それとも冨岡さん自身に言い聞かせるためのものだったのか。問うのは野暮というものだろうと口にすることはできなかったけれど、この小さな世界を飛び出すことを不安に思うのは私だけじゃないのだと。気づけばたくさんの花びらが部屋のあちこちに散りばめられていた。

部屋を去る冨岡さんの背中を見送ることはしなかった。私たちはきっとまた会える。生きてこそ。


(210410)