新しい日々

蝶屋敷を出て行こうと決めたのは、桜の花びらが緑の葉に変わり果てた、初夏の頃だった。療養していた隊士の方達全員がここを出ていったとき、いつだったか、冨岡さんと話したあの日のことを思い出した。少し外の世界を見てみたいと思っていた。自分の力で生きてみたいと思った。あの日冨岡さんと交わした言葉は、鬼殺の世界しか知らなかった私の背中を優しく押してくれた。怖いけど、大丈夫だと思えたのだ。生きてこそ、生きてこそだ。

「本当に行っちゃうのね」

部屋の荷物をまとめ終えた私の背に、アオイちゃんがぽつりと呟いた。与えられていた自室は初めてここに来た時と同じように伽藍としており、寂しそうに呟いたアオイちゃんの言葉が静かに部屋の中に響いた。今日ばかりはいつもの勝気な表情はどこへやら、アオイちゃんが寂しそうに眉尻を下げるので、私もつられて泣きそうになってしまった。

「足の怪我は定期的に観察が必要よ。月に一度は必ずここに来てね」

しのぶさんが亡くなってから私の足の怪我の経過を診てくれていたのはカナヲちゃんだった。日常生活にはほとんど支障はないものの、天気が悪いと痛む日もあるし、今でも駆け足で走ったりするのは難しい。

カナヲちゃんの言葉に私は頷いた。初めて会った時は怪我の手当ても上手くできなかったあのカナヲちゃんが、今では私の頼もしい主治医になる日が来るなんて。胸がじんと疼くのを堪え、私は二人に手を振った。

数週間前にたまたま見つけた下宿屋先に到着した頃には、すでに夕日が西の空に傾いていた。一人で暮らすのには抵抗があったけど、下宿なら他の人と共同で暮らすことになる。そういう点では安心だと思ってここで暮らすことにした。洋館みたいな見た目が物珍しいその下宿先は、六畳一間の小さな部屋が与えられるのみだったけど、喜美子ちゃんという住み込みの女中さんがいて、料理や掃除、洗濯までやってくれる至れり尽くせりぶりがとても気に入った。

しばらくはその下宿先で街を散策しながらのんびり過ごしていたけれど、さすがに毎日遊んで暮らすわけにもいかない。輝利哉様は今でも足の怪我の慰労の意味も込めて多額の援助を送ってくださるけれど、額が額なので手をつけることに躊躇っていた。何より一日中何もすることがないというのは、手持ち無沙汰で困ってしまう。

ある日、下宿屋に住んでいるさださんという女性服のデザイナーさんが、よければうちで働かないかと声をかけてくれた。これからは女性も洋装の時代だからだと女性用のブラウスやスカートを作っているそうで、縫製の仕事をお願いしたいということだった。二つ返事で了承して、私はなんとか仕事にありつくことができた。

呆気ないほどに、とんとん拍子に生活が整った。一歩を踏み出すのはとても勇気がいることだけれど、踏み出してみればどうだろう。恐れることはなかったのだ。冨岡さんはどうしているのだろう。冨岡さんのおかげですと手紙にでもしたためて伝えてみたい気持ちはあったけれど、相手は元柱。それに私にはもう鎹鴉がいないので、どうやって手紙を送っていいのかもわからなかった。

下宿先での生活を始めてからひと月が経って、定期検診と現状の報告も兼ねて蝶屋敷に遊びに行くことにした。二人とも変わらず元気そうで、縫製の仕事を始めたことを告げるととても喜んでくれた。

「そういえば、名前宛にお手紙がきてたの」

そう言ってカナヲちゃんが机の引き出しから一通の手紙を取り出した。見覚えのない筆跡に裏を返すと、思いもよらない人の名前に心臓がドキッと跳ねた。

「冨岡さんだ…」

手紙には、元気でいますか。最後に蝶屋敷で交わした言葉を今も時々思い出し、思わず筆を手に取りました。と、とても丁寧な字で書かれてあった。嬉しくなって、これはすぐにでも返事を書かねばと、下宿先に戻って早速返事を書いた。冨岡さんがかけてくれた言葉のおかげで、私は今蝶屋敷を出て縫製の仕事をしています。と、近況を連ねたところで、私は冨岡さんのことをほとんど何も知らないことに気がついた。冨岡さんが今何をしているのか知りたいとは思ったけれど、あまり根掘り葉掘り聞くのはよくないかと思い直し、当たり障りのない言葉を並べて結びの言葉を書いた。

冨岡さんからの手紙は鎹鴉が運んできたようだったけれど、手紙の終わりにはきちんと冨岡さんの住所が書かれてあった。私はその住所に宛てて、生まれて初めて切手を貼って手紙を送った。ただそれだけのことなのに胸がドキドキとした。新しいことはいつだって、少しの不安と大きな期待で出来ている。


(210413)