ほんとの冨岡さん

下宿先に届いた手紙は女中の喜美子ちゃんが仕分けてくれて、それぞれの部屋に毎朝届けてくれる。冨岡さんに返事を出して二週間、毎日喜美子ちゃんに手紙が来たか尋ねていたけれど、結局返事が来ることはなかった。浮かれていた自分がどうにも恥ずかしく、冨岡さんのことはいったん忘れようと決めた矢先のことだった。

「名前さん、お客さんが見えてますけど」

その日はたまたま仕事が休みで、天気もいいので浅草の方にでも出かけようと考えていた。簡単に身支度を整えていると、部屋の扉を開けた喜美子ちゃんにそう声をかけられた。階段を降りて居間へ行くと、いつも食事を取るテーブルに男の人が一人座っていた。三秒ほどその人を見つめたところで、ようやく冨岡さんだと気がついた。冨岡さんといえば葡萄色と亀甲柄の羽織という印象が強かったので、そういう、所謂書生服のような冨岡さんを見るのは初めてだったからだ。

「冨岡さん!」
「突然押しかけてすまない」

すっと左手を上げる仕草は冨岡さんそのものだ。向かいの席に腰掛けると、喜美子ちゃんがお茶を出してくれた。

「どこかへ出かけるのか」
「ちょっと浅草の方へ行こうかと…」
「そうか、すまなかったな」

そう言って冨岡さんが立ち上がるので、私も慌てて立ち上がった。何か用があって来たのではないのか、用もないのにここへ来たのか、来ただけで帰るのか。聞きたいことが山ほど溢れて、うまく言葉に出てこない。

「あ、あの!時間はありますから、少しお話ししませんか?」

手紙だと憚られることも、面と向かえばすんなりと聞くことが出来そうな気がした。梅雨の晴れ間なのか今日は天気もいいし、歩いてお話しをするにはいい日和だと思った。冨岡さんは笑って頷いてくれた。こんな風に笑う人だっただろうか。私の記憶の中にある冨岡さんの口元はいつも真一文字に結ばれていて、笑ったところなんて見たことがなかった。

下宿の近くに流れる川沿いを、あてもなく二人並んで歩いた。冨岡さんが懐から取り出したのは、二週間前に私が出した冨岡さんへの手紙だった。

「返事を出そうと思ったが、苗字の住所が書いてなかった」
「あっ!」

思いもよらない梨の礫の理由に、思わず顔から火が出そうだった。

「ごめんなさい、手紙といえば鎹鴉だったので、切手を貼って手紙を出すのは初めてだったんです…」

赤い顔を隠すように少し俯くと、なるほど、と冨岡さんが頷いた。

「もしかして、わざわざ下宿先を探しに来てくれたんですか?」
「この辺りの洋館のような下宿先と書いてあったからな。存外すぐに見つかった」

そう言って笑う冨岡さんに、私もつられて笑ってしまった。

「私、どうしても冨岡さんにお礼を言いたくて」
「礼?」
「蝶屋敷で冨岡さんが声をかけてくれたとき、本当は、生きていくことが少し怖くなっていたんです。でも冨岡さんが生きていればって仰ってくれて。あの言葉に、私は救われた気持ちになったんです」

もしあの時冨岡さんにあの言葉をかけられなければ、私はきっと今ここにはいないだろう。鳥籠の中の鳥のように飛び立つことを恐れて、蝶屋敷の内側から窓の向こうを羨み、ひっそりと暮らしていたのかもしれない。あの日、冨岡さんが私を連れ出してくれたのだ。小さな世界の外側に出ることは怖いけれど、それを怖いと思うのは私だけじゃないと、そっと優しく、導くように。

「昔の俺なら、そんな大それた人間じゃないと謙遜していたかもしれない。でも今は、苗字の言葉を素直に嬉しく思う」

冨岡さんは笑っていた。そして私は、とんでもない思い違いをしていたことに気がついた。これが元来の冨岡さんなのだ。柔らかく微笑み、優しい目をしている、ごくごく普通の青年。それこそが、冨岡義勇さんという人なのだ。

私たちはそのまま川沿いの道で手を振り合った。住所がわかったので今度こそ手紙を出そうと、別れ際に冨岡さんがそう言ってくれた。これで終わりではないということが、どうしてかたまらなく私を嬉しい気持ちにさせた。


(210417)