雨上がりの空に

それからしばらくして、ようやく待ち侘びた冨岡さんからの手紙が下宿先に届いた。手紙を仕分けてくれた喜美子ちゃんもよかったですねぇと喜んでくれた。

冨岡さんの手紙には、相も変わらずとても丁寧な字で近況が連ねてあった。十三で鬼殺隊に入隊してからずっと刀を握る生活だったので、今は街を散策したり本を読んだり、好きなことをして暮らしていると書かれていて、なんとなく、元柱といえどやりたいことは私と同じ、普通の生活だったんだなと少し胸が切なくなった。仕事はしていないようだったけど、自分が産屋敷家からいただく援助の額を考え、それから元柱という冨岡さんの立場を推測すると、なんとなく身震いがした。そういえば蝶屋敷で禰豆子ちゃんが、冨岡さんの羽織を直したお礼にたくさんの着物やら宝飾品やらが送られてきて困っていると耳にしたことがある。

夜になって、心の赴くままに冨岡さんへの返事をしたためた。普通の暮らしを願う冨岡さんに、あの春の日に冨岡さんがかけてくれた言葉のように、私も何か気の利いたことでも言えたらよかったのだけれど、一晩悩んでもそんな魔法のような言葉は出てこなかった。代わりに手紙の最後に、今度浅草へお芝居を見に行きましょうと添えるのが精一杯で、自分の文才のなさを呪うばかりだった。

その日は二、三日前から続く雨が止まず、日に日に足の痛みが増すばかりだった。仕事を終え軒先で傘を差そうと空を見上げると、鉛色の空から絶え間なく落ちてくる雨粒に、一層足が重くなるようだった。

「はぁ…」

半ば右足を引きずるようにして雨に濡れた道に一歩を踏み出す。明日には止んでくれるといいのだけれど。流れるように動く群衆の速さについていけず、通りの端っこをゆっくりと歩いていると、とんとんと後ろから肩を叩かれた。あまりにも歩くのが遅すぎて文句でも言われるのかと恐る恐る振り返ると、そこには心配そうな顔をした冨岡さんが立っていた。

「冨岡さん!」
「足が痛むのか」

冨岡さんは私の右足を覗き込む。引きずるようにして歩いたせいか、足の先が泥で汚れていた。

「あの、昔の怪我で…」
「少し休んでいかないか」

冨岡さんが指さしたのは、一軒の純喫茶の看板だった。足の痛みは我慢できない程ではなかったけれど、せっかく冨岡さんが誘ってくれたのでその言葉に甘えることにした。

店内に入り通されたテーブルに座ると、そわそわと落ち着かない私をよそに女給さんが注文を尋ねてきた。

「コーヒーを」

冨岡さんがそう言うので、私も慌てて同じものをと付け加えた。女給さんは一度頭を下げると、すぐにコーヒーを持ってやってきた。取手のついた湯呑みに注がれた、真っ黒な液体。鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅ぐと、香ばしいような、なんともいえない独特な匂いが鼻先を掠めた。

「うっ、苦っ!」

好奇心でほんの少しだけ口に入れると、想像の何倍以上の苦味が口の中に広がった。思わず咽せる私に冨岡さんが慌てて小さな小瓶を差し出した。

「砂糖を入れないと苦いぞ」
「えっ、そうなんですか」

その小瓶には四角く固められた砂糖がいくつも入っていた。試しにそれを一つ入れ、匙でぐるぐるとかき混ぜる。

「初めてなんです、コーヒー」
「そうだったのか」
「…うーん、一つじゃ足りない」

小瓶からもういくつか砂糖を入れている間に、冨岡さんはたった一つ砂糖を入れただけのコーヒーを顔色一つ変えずに飲んでいて、なんだか随分と大人な人のように思えた。

「足は大丈夫なのか」
「ええ、雨の日はいつもこうなんです」

単独任務中、運悪く下弦の鬼に出くわしたのが運の尽きだった。命は助かったものの右足を激しく損傷し、しばらくは満足に歩けないほどの怪我を負った。足の怪我というのは厄介だ。隠としての仕事すら満足にこなせなかった。それでも隊に所属することに拘る私に、先代のお館様が蝶屋敷で働くことをお許しくださったのだ。

「ところで冨岡さんはどうしてここに?」
「手紙に芝居を見に行こうと書いてくれただろう。どんな芝居がいいのか聞きにきたんだ」

思わず冨岡さんの顔を正面から見てしまった。社交辞令、とまではいかないけれど、まさかあの手紙の末文を本気にしてくれたとは。冨岡さんは、どうやら言葉を言葉の通りに受け取る素直な人らしい。

「だったら浅草オペラはどうですか?」
「ああ、構わんが」
「今とっても人気みたいで。衣装も奇抜なものが多くて一度見てみたいと思っていたんです」
「なるほど」

そうして私たちは出かける約束を取り付け、純喫茶を後にした。私は結局コーヒーを半分以上残してしまって、今度来る機会があればもっとメニューを吟味しようと反省した。

外に出るとあんなに降り続いていた雨はいつのまにか止んでいて、千切れ千切れの灰色の雲の向こうには薄らと紺色の夜の空が見え隠れしていた。

「よかった、雨止んでる」
「送っていこう」
「でも、冨岡さんが帰るのが遅くなってしまいますから」
「夜は得意分野だ」

そう言って口角を上げる冨岡さんに、ああそうかと理解するまでに少し時間がかかった。鬼殺隊がなくなってからの冨岡さんは、隊服はもちろん羽織も着なくなって、髪も短くなって、すっかり別人のようになってしまって、私はまるで昔からの友人のように冨岡さんに接してしまっていることに気がついた。つい数ヶ月前までは考えられなかったことだ。失礼ではなかったか心配になったけれど、雨上がりの夜空を見上げる冨岡さんはどこか楽しげで、そんなふうに笑ってくれるのならば良かったのかもしれないと思い直した。

冨岡さんが私の分の傘まで持ってしまったので、結局下宿先まで送り届けてもらうことになった。帰り道、冨岡さんはゆっくりゆっくり私に歩幅を合わせてくれて、その優しさに胸の奥がじんわりと温かくなった。


(210420)