振り返るときは

浅草オペラを観に行きたいとさださんに相談すると、だったらお勧めがあるとすぐに入場券を手配してくれた。今人気のある舞台だそうだけど、さださんが何度か衣装を提供したことがあるらしく融通が利くらしい。持つべきものは顔の利く上司、といったところである。

約束の日はすぐにやってきて、私は密かにお洒落をして待ち合わせ場所に向かった。冨岡さんと浅草でオペラを観る。私の人生において、これまでもこれからもそんな特別なことは二度と起こらないような気がしたからだ。こつこつ貯めていた縫製の仕事のお給金で、新しい髪飾りと鞄まで新調してしまった。

「あの男前の彼と行くんでしょう?羨ましいわ」

出かける前にさださんに髪を結われながら、そんな風に揶揄われたことを思い出していた。勝手に赤くなる頬が恥ずかしかったが、私にとっては特別な日でも、冨岡さんにとってどうなのかはわからなかった。

待ち合わせ場所にはいつもと変わらない冨岡さんが立っていた。流行りの女の子のように結われた私の髪を見て、冨岡さんはほんの少し目を見開いた。その視線がなんだかくすぐったくて、なんとなく目が合わせられなかった。

「お待たせしてすみません」
「いや、俺もさっき来たばかりだ」

さすが今人気のオペラなだけあって、劇場は開演前からたくさんの人で賑わっていた。中に入ると客席どころか通路まで満員で、私たちは客席の後ろの方で立見するほかなかった。最初は私の左隣に立っていた冨岡さんが、少しして私の右側に場所を変えた。もしかしたら、私の足の怪我を気遣ってくれているのかもしれないと思った。

舞台が始まるとその熱気たるや、凄まじいものだった。曲目や演者の歌声、舞台装置や衣装の一つ一つのどれをとっても美しく、感動で胸がいっぱいになった私は全ての演目が終わってもしばらくそこに立ち尽くしたまま動けないでいた。

劇場から外へ出て、大通りを過ぎたあたりまで私はさっき見たオペレッタのどこが素晴らしかったか、どこが美しかったかを一つ一つ思い出して口にして、その言葉に冨岡さんは丁寧に相槌を打ってくれた。演目の最後まで語り切ったところで、自分がずっと喋りっぱなしだったことに気が付かないほどだった。

「すみません、私ばっかり喋ってしまって…」
「いや、苗字が楽しんでくれたのならよかった」
「今度は冨岡さんが好きなものを観に行きましょうね」

そう言ったところで、しまったと思った。さも当たり前のように今度の話をしてしまったけれど、今度があるかどうかなんて私一人で決めることじゃない。慌てて否定しようとした私より先に、冨岡さんが優しくそうだなと言ってくれた。

「腹は減らないか。時間があるならどこかへ寄ろう」
「そうですね!冨岡さん、食べたいものはありますか?」
「ああ、あるにはあるが…」

冨岡さんは歯切れ悪そうにそう言って、ゆっくりと歩き始めた。少し歩いた先にあったのは小さな定食屋さんで、冨岡さんは慣れた手つきで戸を引いた。そのまま奥の席へつき、私も向かいの椅子に腰掛けた。

「ここの鮭大根が美味くて昔よく来てたんだ」
「そうだったんですね」
「せっかくめかし込んでいるのにこんなところですまない」

その言葉にさっきの歯切れの悪さの理由を察し、そしてまた少し恥ずかしくなった。冨岡さんが今日という日をどう思っているかはわからないけれど、私にとってはやっぱり特別なのだ。夢のような浅草の劇場でも、裏通りの小さな定食屋さんでも。それはきっと、隣にいるのが冨岡さんだから。

「一人だと足が進まなくてな。付き合わせて悪かった」

冨岡さんは柱にまで上り詰めた人だから、私にはその背中にのしかかる重圧がどれほどだったのかはわからない。でもほんの少しだけ、その気持ちはわかるような気がした。一人で後ろを振り返るというのは、存外勇気がいることなのだ。前を向いて生きたいと、願えば願うほどに。

「鮭大根食べたくなったら呼んでくださいね。私、いつでも付き合いますから」

悲しみや苦しみを等しく分け合うことは難しいけれど、悲しいとか苦しいと思うときに、隣に誰かがいるのといないのでは天と地ほどの差があることを私は知っている。今少し悲しげに目を伏せた冨岡さんにとって、その隣にいる誰かになれたなら。

「ありがとう」

そう言って笑う冨岡さんはとても素敵だ。優しい笑顔は冨岡さんによく似合っていると思う。


(210424)