最良の選択

二人で出掛けたあの日から、私と冨岡さんは何かにつけてよく会うようになった。例えば冨岡さんは最近読んだ面白い本を私に貸してくれた。そのお礼に私は利き手を失って不便なこと、特に縫製に関することなんかは進んで引き受けた。あの定食屋さんにも二人で何度か足を運んだ。

一緒に過ごす時間が増えていく中で、私は次第に思うようになった。私たちのこの関係に名前をつけるとするならば、一体何が相応しいのだろう、と。

ある日冨岡さんが本と一緒に差し出してくれたのは、お行儀よく綺麗に敷き詰められたたくさんの温泉饅頭だった。

「わぁ、美味しそう」
「宇髄の家族と温泉に出かけたんだ。その土産だ」

宇髄さんといえば。蝶屋敷で宇髄さんの名は禁句に等しい。遊郭潜入での一件でアオイちゃんやきよちゃんたちは宇髄さんのことを極端に怖がるようになってしまったし、そのことでしのぶさんと宇髄さんが揉めたことも小耳に挟んだ。かくいう私もどちらかと言えば宇髄さんは苦手だ。まず奥さんが三人いるという時点で常軌を逸している。

「温泉饅頭、久しぶりです」
「そうなのか」
「私、生家は温泉街の近くで。昔たまに父が買ってきてくれてたんです。懐かしいなぁ」

子どもの頃はそのたまに食べられる温泉饅頭が大好きだった。父が買ってきてくれるお饅頭には鳥の形の烙印が入っていて、甘くて柔らかくて優しい味がしたことをよく覚えている。だけど、両親が鬼に殺され鬼殺の道に入ってからはしばらく口にしていなかった。なんとなく、思い出すのが嫌だったから。でも今は、単純に懐かしい気持ちでいっぱいだ。

とはいえ、たくさんの温泉饅頭は到底一人で食べ切れる量ではなく、下宿先のみなさんにお裾分けしてもまだ半分ほど残っていた。その一つを頬張っていると、不意に善逸くんのことを思い出した。あの子はいつも戸棚の中のお団子やお饅頭を勝手にあさって、しのぶさんやアオイちゃんによく怒られていたっけ。炭治郎や伊之助くんも、元気にしているだろうか。禰豆子ちゃんとは時々蝶屋敷で会ったり手紙のやりとりをしているけれど、久しぶりに顔を合わせたいと思った。あの懐かしい味に似た温泉饅頭のせいなのかもしれない。

善は急げ。お饅頭が悪くなってしまう前に、よく晴れた夏の翌日、仕事も休みだったので奥多摩を目指すことにした。列車に乗り、手紙に書かれた住所を頼りにゆっくり山を登ると、そこには小さな家が一軒。裏手には炭焼き窯がある。炭治郎の家で間違いなさそうだ。

「ごめんください」

しんと静まり返った家からは返事がない。留守だろうか。もう一度声をかけようとすると、庭の方からこちらへ駆け寄ってくる足音が聞こえた。

「名前じゃないか!久しぶりだな」

やってきたのは炭治郎だった。額に薄らと汗をかき、首には手ぬぐいがかけられている。どうやら仕事の最中のようらしかった。

「こんにちは。突然お邪魔してごめんね」
「上がってくれ。暑かっただろう」

炭治郎は私を居間へと通し、台所の方へ消えていった。通された居間は風通しがよく、吹き抜ける風が涼しくて気持ちが良い。奥からお茶を持ってきてくれた炭治郎は申し訳なさそうな顔をしていた。

「悪いけど、今家には俺しかいないんだ」
「そうなの?」
「禰豆子と伊之助は蝶屋敷に、善逸は炭を売りに山を降りていて」
「そうなんだ。突然押しかけちゃったし仕方がないね」

炭治郎が出してくれたお茶をごくごくと半分ほど飲み干して、私は持ってきた風呂敷包を広げた。

「冨岡さんに温泉饅頭をたくさんいただいたの。お裾分けがてらみんなの顔が見たくなって」
「うわぁ、美味しそうだな!善逸が喜びそうだ」

炭治郎が箱の中身を覗いて、けれどすぐに顔を上げた。

「今、冨岡さんって言ったか?」
「そ、そう。実は、ちょっと色々とあって…」

炭治郎の不思議そうな視線に思わず下を向いた。確か炭治郎は冨岡さんと親しかったはずだ。私は冨岡さんとの現状をぽつりぽつりと話し始めた。この場にいるのが炭治郎だけ、というのは逆によかったのかもしれない。最近一人で悶々と考えることが多かったから、誰かに話を聞いて欲しかったというのもあった。

「そうか。それで名前は義勇さんが好きなんだな?」

改めてそう言葉にされると気恥ずかしいけれど、それは紛うことなき事実だ。私が小さく頷くと、炭治郎は嬉しそうにうんうんと頷いた。

「でも、冨岡さんがどう思っているかはわからないの。もしかしたら冨岡さんは、このままの関係でいいと思っているかもしれなくて…」

例えば、冨岡さんは私に痣の話はしない。遠い未来を夢見る話もしなければ、自分の行く末を憐れむようなことも言わない。冨岡さんの瞳は、いつもただ真っ直ぐに今だけを見つめている。冨岡さんが自分の未来をどんな風に考えているかなんて、今の私には少しも理解することができない。だけど、それでも一緒にいたいと願ってしまうのは、果たして罪なことなのだろうか。

「義勇さんの考えてることは俺にもわからないかな」
「そうだよね…」
「でもこれだけははっきり言える。義勇さんは、名前の気持ちを蔑ろにするような人じゃないよ」

炭治郎がそう言ってくしゃっと笑った。その笑顔に、その言葉に、今日この場所を訪れたのは私の中で最良の選択だと思った。


(210428)