別れの予感

「名前ちゃん大丈夫?」
「うん、ありがとう…」

自前のハンカチが涙で使い物にならなくなって、見かねた禰豆子ちゃんが手ぬぐいを差し出してくれた。遠慮なく手に取って止めどなく流れる涙を拭う。ずずっと鼻を啜ると禰豆子ちゃんがよしよしと頭を撫でてくれた。なんて優しいんだ。

冨岡さんに好きだと伝えたあの日からもう三週間が経とうとしていた。冨岡さんからの音沙汰は一切ない。日を追うごとに冨岡さんへの想いは募る一方で、一人で抱えるのにも限界があった。誰かに話を聞いてほしかった。あわよくばもう諦めなさいと諭してほしかった。自分の知り合いに冨岡さんに詳しい人が炭治郎しかいないことを思い出し、気づけば全力で奥多摩の山を登っていた。

前回は炭治郎だけだったけど、今回は四人揃い踏みだった。炭治郎の顔を見るとどうしてか涙が止まらなくなって、私は号泣しながら炭治郎に事の顛末を話した。三人はポカンとした顔をして、炭治郎だけが慌てふためいていた。

「…くそ、あいつ禰豆子ちゃんに飽き足らず名前ちゃんにまで…!」
「おい名前!この煎餅うめぇな!」

途中手土産にと買ってきたお煎餅をバリバリ貪る伊之助くんの隣で、善逸くんがかっかかっかと怒っていた。

「きっと義勇さんも何か考えてると思うんだ」
「そうなのかなぁ…」

うーんと腕組みして考え込む炭治郎に小さくため息をつく。こんなことになるんなら、少し時間をくれの少しが具体的にどれくらいなのか聞いておけばよかった。

「思い切って訪ねてみたら?」

禰豆子ちゃんの問いかけに少し考えてみたものの、私は首を振った。正直告白の返事は分かりきっている。冨岡さんが今何か考えてくれているとしたら、きっと私がなるべく傷つかないような別れのセリフなのだろう。わざわざそれを自分から聞きに行けるほど私は強い人間じゃない。

この三週間、冨岡さんに会えないことがこんなにも辛いことだなんて思ってもみなかった。手紙のやりとりから始まって、二人で会うようになって、気づけばたくさんの思い出が生まれていた。何をするにも胸が躍って、些細な出来事でも嬉しくて、隣にいられることがこの上ない幸せだった。きっとただそれだけでよかったのに。欲を出した私への罰当たりのような気さえした。

「俺から義勇さんに手紙を書いてみようか?」
「ううん、大丈夫!みんなに話しを聞いてもらえて少し落ち着いたよ。もう少し自分で考えてみるね」

勤めて明るくそう言ってはみたものの、炭治郎も禰豆子ちゃんも同じような丸い瞳の上で眉尻を下げていた。その表情がよく似ているなと微笑ましく思いつつも、胸の奥につかえたものは消えぬまま、私の心をきゅうっと締め付けるばかりだった。

***

その日は何の前触れもなく訪れた。日に日に寒さの増す冬の始まりの日のことだった。

「名前さん、お客様です」

日曜日、持ち帰った縫製の仕事に勤しんでいると、女中の喜美子ちゃんが私の部屋の戸を開けた。

「お客様?」
「ほら、あの片腕の男前の人です」

喜美子ちゃんの言葉に心臓が口から飛び出るほど驚いた。私を訪ねてくる片腕の男前なんて、冨岡さん以外に考えられないのだ。早る気持ちを抑えようとするも、指先から針が滑り落ちてしまった。それは奥多摩に出向いてから一週間ほど経ったころのことだった。

「玄関の外で待ってらっしゃってますので」

喜美子ちゃんはそう言って私の部屋を後にした。慌てて部屋の隅に放っておいた襟巻きだけを手に、二階の自室から一階へ降り玄関の戸を開けると、ひと月前に見たときと変わらない冨岡さんが立っていた。

「突然押しかけてすまない」
「あ、いえ…」
「少し話せるか」

私が頷くのを見て冨岡さんは歩き始めた。とうとうこの日が来てしまった。冨岡さんに振られる。もう二度と会えなくなる。まだ何の心づもりもできていないのに、一歩進むたびに別れが近づいてくる。

半歩先を歩く冨岡さんの横顔を見つめながら、いつだったか、初めて冨岡さんが私の下宿先を訪ねてきてくれた日のことを思い出していた。あの日もこうして川沿いの道を歩いた。あの頃はまだ、冨岡さんのことをこんなにも好きになるなんて思ってもみなかった。

やがて冨岡さんは川沿いのベンチに腰掛けた。眼下に広がる冬の川は見ているだけで体が芯まで冷えていく。私もその隣にほんの少し距離を空け座った。口元まで覆った襟巻きの中でため息が白く滲んでこぼれた。


(210522)