此処は幸せの真ん中

「何から話せばいいのか」

冨岡さんはそう言って少し黙った。私も静かに冨岡さんの言葉を待っていた。

「宇髄に言われたんだ」
「宇髄さん?」
「ああ、苗字のことをどう思っているのかと」

少しの沈黙の後、冨岡さんから出てきたのが宇髄さんの名前だったことにほんの少し驚いた。そして宇髄さんの家で私が泣き出してしまった時、宇髄さんが冨岡さんに声をかけ席を外したことを思い出した。あの時二人がそんなことを話していたなんて。

「俺は痣者だ。年が明ければ二十二になる。時間がない」

冨岡さんが何か言葉を紡ぐたびに、吐く息が白くなって冬の空に消えていった。霞の向こうに見えるその横顔が綺麗だと思った。これが最後なのだと思うと、目に焼き付けずにはいられなかった。

「宇髄は、苗字のことをもっと真剣に考えるべきだと言った。確かにそうだと思った。四年後生きているのかさえわからない男にこれ以上苗字が構うのはよくない。苗字には苗字の人生がある」
「私の、人生…」
「ああ、だから離れようと思った。少し時間が欲しいと言ったのはそういう意味だ」

その言葉に胸が締め付けられるようだった。下を向いて、奥歯をぐっと噛んで、これから何を言われたって泣かないよう、笑ってさよならが言えるよう、膝の上で爪の跡が残るくらいに強く拳を握りしめた。

「ひと月も経てば忘れられると思ったんだ。忘れられたら詫びにくるつもりだった」

そして今日がその日なのだと。これでお別れなんだ。冨岡さんの中に、もう私はいないんだ。

「だけどそうじゃなかった」
「え?」

予想外に続いた言葉に思わず冨岡さんの方を見ると、冨岡さんは少し困ったように笑っていた。その意味が分からず首を傾げる。

「街を歩けば一緒に歩いた日のことを思い出す。面白い本が見つかればいつ渡そうかと考える。一人じゃ飯を食いに行く気にもなれないし、裾のほつれも自分では直せなかった」

そう言って冨岡さんは懐から帛紗を取り出して広げた。上等そうな布地は絹だろうか、帛紗に包まれたそれを見て、私は頭が真っ白になった。うら若き青春時代を全て鬼殺の道に捧げた世間知らずの私ですら、今冨岡さんの手の中にあるものが何を意味するかということくらい分かっている。そうじゃない、そうじゃなかったはずだ。混乱する私をよそに、冨岡さんは私の左手を掬い上げるように宙へ浮かせた。

「もう少し俺の人生に付き合ってくれないか」

梅を模したものだろうか、華奢な作りの花飾りの台座の中にある宝石は、宝飾に疎い私が一目見ただけでダイヤモンドだとわかるほど、眩い光を放っていた。冨岡さんは中に浮いたままの私の左手の薬指にその美しい指輪をはめてしまった。指輪はまるで元から私のものだったように、ぴったりと薬指に馴染んでしまった。その様子を見た冨岡さんがよかったと安心したように呟いた。私の頭の中はいよいよ混乱を極めた。

ただひとつわかったことは、今日が最後の日ではないということ。

「うっ、うっ、…」
「ど、どうした」

ピンと張り詰めていたものが弾けてしまったかのように、私の二つの目からは止めどなく涙が溢れた。ドバドバ滝のように流れる涙を見て、冨岡さんは慌てふためいた。

「指輪、気に入らなかったか?すぐに違うものを買いに行こう」

とにかく泣くことしかできない私に、冨岡さんは何を思ったのか私の薬指から指輪を抜こうとした。私は慌てて指輪を右手で覆い、胸の前でぎゅっと握った。

「違うんです、違うんです…!」

震える声でなんとかそれだけ絞り出すと、私はまた嗚咽を漏らした。胸の前で握りしめた両手に何度も何度も涙が落ちた。

「私は今日、冨岡さんに振られるとばかり…」

必死にそれだけ伝えると、冨岡さんがハンカチを差し出してくれた。出かけに鞄を持ってくるのを忘れたことを思い出し、申し訳ないと思いつつもそのハンカチをありがたく受け取った。

「随分待たせてしまったな。すまなかった」

ハンカチで涙を拭いながら顔を上げると、思った通りの優しい顔をした冨岡さんがいた。私が一番好きな冨岡さんの表情だ。

浅草に二人で出かけたあの日、もうあんなに幸せな日は二度とないだろうと思っていた。だけど今は、目の前に優しい顔をした冨岡さんがいて、貸してくれたハンカチからはほんのり冨岡さんの匂いがして、そしてそれを握りしめる左手にはダイヤモンドの指輪が輝いている。今ごろになってようやく気がついた。私はあの日からずっと、終わらない幸せの真ん中にいたんだ。

「もう、待ちくたびれましよ」

精一杯の憎まれ口も冨岡さんが嬉しそうに笑うから、さっきまであんなに泣いていた私もつられて笑ってしまった。

こうして私と冨岡さんは、晴れて夫婦になることとなった。


(210526)